写真の良し悪しを判断するのは自分である / 無理して写真の感想言わなくて良いんじゃないですか

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写真の良し悪しを判断するのは自分である / 無理して写真の感想言わなくて良いんじゃないですか

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前回、「外部情報をいったん遮断して、写真に何が写っているかを丹念に拾い上げて、拾い上げた写っているものを解釈する」ことを写真鑑賞のルールとしてみては、というお話をしました。

写真鑑賞と囲碁観戦

写真の前に立ち止まって、踏ん張って、鑑賞した先に何があるか。目の前の写真に様々なものが写っていて、私たちは様々な感情や思考を引っ張り出して味わうという体験をするわけですが、じゃあ、この写真を見て、視て、観て、得た鑑賞体験の評価を私たちはどう下すのか。
今回はそれをお話しようと思います。

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この写真の良し悪しを判断するのは自分である

鑑賞した写真が素敵だったかどうか、は、他の誰でもなく、マスコミや世間やウェブの誰かではなく、自分であると私は考えています。

目の前の写真をみて、その写真を味わいつくした結果、写真への感想や評価が人によって分かれることは、ごくごく普通の話です。当たり前の話と言って良いでしょう。

いつもリンゴの例で恐縮ですが、同じリンゴというシグナルをみた時に「赤い」「酸っぱい」 「甘い」「硬い」「昔取ろうとして落ちたなぁ」…、人によって、それぞれ異なったいろんな気 持ちやエピソードが引き出される、その帰結として、異なった感想や印象が生まれます。

そのいろいろ異なっていること、多様性こそが写真鑑賞を生きたものにするのであり、その結果として出てきたものが多様に分散するのは当然です。

    Aさん「よく見た結果、私はこのハートマークを可愛いと判断する」
    Bさん「よく見た結果、私はこのハートマークを可愛くないと判断する」

は、普通にあるし、あるべきことです。周りのみんなが絶賛だ、超不評だ、作者が有名人だ偉い 人だ知り合いだお世話になった人だ、などという話は、ただのノイズでしかありません。

写真に向かい、みて、味わって、感想を持つ、という行為を、手抜きせずにやりきることのみに誠実でありたい。鑑賞のスタンスは人それぞれで良いと思いますが、少なくとも私はそう思っています。

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無理して写真の感想言わなくて良いんじゃないですかね

手間をかけて写真を鑑賞するのだ、というお話によく付随して出てくるんですが、こないだXICOの方から「写真展の感想を求められて困った」とかそういう話題が出てきました。

ので、鑑賞したことの感想を口に出して語ること、に対する私の個人的な意見を書いておきます。
分量的にはこっちがメインになります。

「写真の感想を話しにくい」場合について、以下に状況を切り分けてみます。
大きく3パターンに分かれると思います。

  1. その写真をよく思わなかった場合
  2. その写真がよく分からなかった場合
  3. 写真の感想がうまく言語化できなかった場合

これらについて、順に説明していきます。

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1.よく思わなかった場合

ぶっちゃけた話、「仲良い人が撮った写真だけど、私はあんまりこの人の写真を良いと思わない」「知らない人に写真の感想を求められたけど、いま口を開けばディスしか出てこない気がする」「みたけどイマイチじゃね?」は、別に普通にある話だと思います。さらには、ちゃんと突き詰めて写真を鑑賞した結果、もしかしたらなぜ写真が良くないのかについて、要素を特定し、 意見としてまとめるとことまで出来ちゃう場合もあるかと思います。

この場合、良いと思わなかったら特に褒めたり、感想を言わなくても良いんじゃないでしょうか。

…ちょっと待ってよ、それは誠実じゃないのではないの?、という意見は当然出てくるでしょう。それはその通りで、理想論としては、写真について指摘を行って議論を深めることは有益だと思います。

ですが、その理想論がうまく成立するのは、「写真は写真、人は人」という分離がきちんと出来る者同士の間において、もしくは教師-生徒のような主従関係が確立した間で、教えを乞う関係性の中で、という範囲に限られます。

また、たとえ成立する関係性にあっても、特にネガティブな指摘や議論を行う場合、写真についての批判と人格批判をきちんと分離して会話を行わないと大変なことになります。これは実際のところ、かなり難しい話です。

たとえば、いきなり写真の話になりますが、ストリートスナップにおいては、被写体との距離感という要素は鑑賞時の感想としては重要なパラメータになります。このとき、ストリートスナップを見て「少し被写体との距離が遠くて、物足りない、腰が引けた印象を受けるな」という感想を持った場合、これを中立的な写真への批評としてどう伝えるか。どうでしょう、なかなか難しんじゃないかと思います。迂闊な言い方をすると、受け取った方が「お前は腰が引けた人間だ」みたいなニュアンス、人格否定として解釈してしまい、ギクシャクしたり、時には喧嘩になったりする場合もあるでしょう。

作品の切磋琢磨のためにはそれも辞さない!場合であれば止めませんが、言うてもそういう議論が出来る土壌や訓練が出来ている人は稀ですから、私はあまりお勧めしません。人間関係と社会性を優先して特に触れないという手はアリじゃないでしょうか。写真は嫌いだけど特には触れず、仲は良い。それで良いと思います。

2.よく分からなかった場合

唐突ですが、私、あんまり梅干し好きじゃないんですね。なので、梅干しを美味しいと思えない、というか梅干しの良さがわからないのです。なので、お弁当の感想を聞かれても梅干しに関係する部分については語れません。わからないので。

あと、ミュージカルの良さもいまいちピンと来ないんですよ。なんで歌うのって思ってしまう。喋ればいいじゃん、歌わなくてもって。でも、わかる人にはミュージカルの良さがきちんとあって、楽しめる。で、私はミュージカルが分からないので善し悪しが語れません。

写真を見に行って、「よく分かんなかった」「特に何も思わなかった」「みんな良いって言ってるけど自分にはピンと来ない」という場合も、当然、普通にある話です。それで良いと思います。

「分からなかった」と素直に告げる博打にトライするよりは腰は引けていますが、よくわからないけど分かったかのようにとりあえず「素敵でした」と言っておこう、という話よりは誠実ではないでしょうか。

3.うまく言語化できなかった場合

これだけ鑑賞して云々っていう話をしておいてなんですが、「写真を観て何かを感じること」と「感じたことを言語化すること」は、一緒くたにされがちですが、これは全く別のスキルです。

両方ともある程度の訓練が必要な話ですが、特に後者の「考えたこととか感じたことをうまく言葉や文字に変換する」というスキルは、実はかなり訓練が必要です。これがキチンとできれば、そういう職に就けるレベルと言ってもいい。

感想や考えたことをうまく言葉に変換してお話ができないがゆえに、「言葉にすると嘘が混じる気がする」「感想がうまく言葉に落とせない」というのも、また普通にある話ではないかと考えています。

それを専門にしている、感想を言語化する訓練をしているという場合は別ですが、そうでなければ「うまく言えませんがネガティブな印象ではないです」くらいの感想をお話するくらいでも、良いのではないでしょうか。

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望ましい姿としては、言語化スキルの上手下手にかかわらずその努力は尊重されるべきだ、また作品に対する批評と人格に対する批判は全くの別物であって、語る方も聞く方も分離して受け取られるべきだ、という形はあります。

そんな望ましい姿になればきっと素敵な世界になろうかと思いますが、その保証が取れない状態では、ネガティブな感想は黙して語らずという戦略は、後ろ向きではありますがひとつの正解だろうと考えています。

真に信頼出来る仲間を作り、その中で自分の写真を、また仲間の写真を批評的に鑑賞し、前向きな議論として展開できるという関係性を写真を続けるなかで誰かと築くことが出来れば良いのですが…

それでは。

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