奇跡の一枚をモノにする方法

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奇跡の一枚というお話。奇跡の一枚とは、まあ言葉通りで、あまり説明してしまうと意図と外れてしまいそうなので漠然と捉えていただきたいのですが。厳密に意図したわけでもないのに撮ってみたら自分の歴史上に残るような写真になってしまった!みたいなやつ。

奇跡の一枚に近づけよう。

趣味と仕事の違い

趣味にしても仕事にしても、奇跡というのは常に起こりうると思うんですが、写真をその生業にしている人だと、奇跡を待つわけにはいかないので、その知識と経験を総動員して、思い通りのイメージをつくりにいかないといけない。しかし趣味や表現として写真をやっている人にとって、奇跡の一枚というのは嬉しいような悔しいような存在だと思うんですね。少なくとも自分とってはそうだった。

偶然が産んだ写真

過去の写真を振り返ってみると、大小問わず自分的に奇跡と言える写真がいくつかあります。意図したわけではないけど「この背景が良いなと思って配置してみたら光が良くてうまく仕上がった。」「右も左もわからず配置したライティングが思いがけず良かった」「たまたま風が吹いてその時の情感がすごく良かった。」とか。言葉にできないモノも含めて、そういうのは誰でも経験があると思うんですよね。で、そういう写真が撮れると、自分の場合は素直に喜べない。確かに良い写真になった。でも、意図して撮れたものではないから自分の実力じゃない。ただのラッキーだって。

偶然によってもたらされたものを受け容れられなかった。

だから嬉しいんだけども、同時に悔しかったんですよ。
そして、ずっとこれをコントロール出来ないといけない。って思っていた。
それができていない自分はゴミなんだと、ずっと思い続けてきた。

が、さいきんはすこし心が和らいできているのを感じます。

その理由は簡単で、目の前にあること全てを尊重しはじめたから。
起きた偶然や、それを選んだ自分、そういう化学反応をたのしむ余裕がうまれた。
そこで起きた偶然性も含めて写真に写すというか、そういうことも尊重しはじめた。

贈り物だと思って素直に受け取れるようになったんですね。

それは本当に奇跡だったのだろうか

さて、尊重云々というのは置いといて、先程あげた三つの例を参考に、奇跡をもう少し紐解いてみます。

この背景が良いなと思って配置してみたら光が良くてうまく仕上がった。

Nikon D800E, Carl Zeiss Makro Planar 50mm F2
Nikon D800E, Carl Zeiss Makro Planar 50mm F2
まだ何も分かっていない頃。背景の感じがなんとなく良いなと思って撮ってみたら、たまたま被写体への光もよくてキレイに撮れた。嬉しい半面、悔しい。しかし今思えば当時、それが光の良さかどうかはともかく、なにか良いと思って感じたセンスは自分だけのもので、それを否定する必要はないのかなと。まさにそこを選択したことが大事だったのではとかんがえられるようになりました。少し自分にやさしくなれたんでしょうかね。もちろん、自分で確信を持って、「ここだ!」と思えるのであればそれがベスト。でもそうもいかないですもんね。それは次第に経験によって培われていくものなんだと思います。だから、思わず撮れてしまったという自分を責めている昔の自分のような人がいたら、その「なんとなく」を許してあげても良いかもしれません。

右も左もわからず配置したライティングが思いがけず良かった

X20140223-_DSC8545
右も左も分からないとき、クリップオンストロボだけを持って、見よう見まねでなんとなくライティングをセットしてみたとき。暗いから被写体を明るくしなければならないと思って当ててみた。そしたらそれっぽい写真が撮れてしまったんですね。あれは今思えば奇跡なんですが、ああいう自分にとっての成功体験が一つ成長させてくれたと思います。
しかしこの例なんかは、同じ奇跡でも知っていることでその再現可能なモノもありますね。自然光より難しく思えるライティングですが、逆にセッティングさえ同じなら同じ光を再現できるので、わかってさえいれば再現できるとも言える。なので「知ることで解決できることは解決する」というのは大切なことだと思います。「良い写真を撮るのに必要なのは知識なんかよりも気持ちや情熱」という風に言う人もいますが、きっと「知識が必ずしも良い写真を撮るのに役立つわけではない」ということなんだと思います。

たまたま風が吹いてその時の情感がすごく良かった。

富士フィルムフォトコンテスト 自由部門 入賞作品 例えばこの写真なんかは、もう奇跡でしかなくて。フランスにあるモン・サン・ミッシェルから下の海を見下ろしてみると、引き潮の上を歩いている人がいた。しかもご丁寧に紅一点赤いジャケットを着て。その場に居合わせてカメラを持っていた自分は運良くそれを抑えることができて、賞をいただくことまでできた。ただのラッキー。わかりやすい奇跡。

こういう自分ではコントロールできない何かが降りてきたり、偶然が重なることで、自分が望んだ以上の結果が訪れてくれる。この写真の例でいうと結果を望んでいたわけですらないのに落ちてきたというレベル。棚から銀賞。

奇跡というのはこういうもののことを言うのだと思います。ではこういった奇跡は再現不可能なのか?完全に再現することは難しいかもしれない。けどもその確率を出来る限りあげて、その時がきたときに抑えられるよう備える事はできるのではと。それは、常に奇跡は起きるかもしれないという期待を持って街を歩くだけでもよいかもしれない。だからそれからの自分はいつ棚からぼたもちが落ちてきても受け止められるよう棚の下に皿を敷き詰めている人生です。

98年ワールドカップで優勝したフランス監督のエメ・ジャッケが、「勝ったのは奇跡ではない、それだけのことをやってきた」と言っていますが、奇跡というのはそれが訪れた時に準備してきた人たちこそ掴めるんですよね。オレグ・マツェイチュクという日本フェンシング会を世界レベルまで引き上げたと言われる名コーチも、「奇跡は準備されている」という本を出しています。

奇跡のスケールを大きくしよう

ここではっきり言いますが、、上にあげた奇跡というのは、自分にとって確かに奇跡だったものの、当時何も分かっていない時期だったからこその奇跡だったのです。例えばライティングの話なんかもそう。たまたま良く出来たというレベルの奇跡。あの時の奇跡を、今なら自分で起こすことが出来る。それは少なからず努力して前に進もうとしてきたからと言っても良いかもしれません。

自分の中の基準を少しずつでも大きくして、前に進むことで、次に起きてくれるであろう奇跡のスケールをあげていくことを繰り返していきたいですね。

自分に次起きる奇跡はなんだろうと考えると、いまのうちに婚姻届を用意しておいたほうが良いかもしれません。

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