写真を撮る理由

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写真をはじめた頃は、なんとなくキレイな写真が撮れるのが嬉しくて、それをSNSに公開したりしてました。そのうち、写真を撮るときに、キレイにみせられるようにと加工を凝らしたり、モデルにはポージングについてああだこうだと指示しつつ自分の中で頭のなかにある絵を、写真で再現するような方向に向かっていったんですね。

あ、申し遅れました、わたくし、ゆるふわをまとうもの あきりん @crypingraphyです。

自分が撮っている写真は、写真の必要があるだろうか

何故か突然、前触れもなくふと思ったんですよ。

写真の必要あるのかな?と。
もし自分が、リアリズムな絵を描くことができたら、絵画を描けば良い。でも描けない。
表現したい絵があるのに、それが描けないからカメラを使って表現しているのだとしたら。
そう思うとカメラという機械を使ってそれを再現していることに対して、突然違和感を感じるようになってしまった。
それってつまり、自分ができないことの代替手段として、写真を使っているだけに過ぎないって思ってしまったんですね。

撮る理由がない。

ファッションとかアートとか創作とか、そういう理由で写真を撮っている人は、「写真である理由」を持っているからそれで良い。

でも自分はとくに大仰な理由もなく、ただ撮ってそれがキレイであることを目指していたから、それってどうなんだろうって。

ラーメンが食べたい

友達が遊びに来て「ラーメンが食べたい」と言っている。
けれどおいしいラーメンが作れないから、それっぽくおいしく食べられるインスタントラーメンを茹でてお皿にうつして装飾して提供しているような気分。
つまり自分の力の無さを晒しているだけに過ぎないのではないかって。

言いすぎだと思うけども、急にこんな気持ちになってしまったのである。
それでこういう疑問が湧いてきたんですよ
フレームに写っているモノは、そこに確かにあるのに、「オレはその現実を真摯に受け止められているだろうか」って。
ああしてこうしてと、モノのように扱ってはいないだろうかと、ふと自問自答をしはじめてしまった。

その結果、唐突に理解不能なコンテポラリーの世界にいる人たちが戦っているものが、おぼろげに見えた気がした。
彼らはもしかしたら、きっとそういう思いを常々抱え、それに対して答えを見出そうとしているのではないかと。
しかし自分は現代芸術を体現しているわけではないなので、せめて自分なりの解釈で「尊重しよう」という意識が芽生えはじめた。

そうこうして、自分の撮影スタイルは少しずつ変わっていったのです。

心構え

model / Komatsuna
model / Komatsuna

「目の前にあるモノを尊重する」

もう、言葉で説明するとこうとしか言えないのですが、こういう意識が芽生えはじめました。

かんたんに言うと、何でもかんでもコントロールしようとしないということです。
気に入らないところなどがあれば、指示もするし背景として不要なモノは排除したりもする。
絵的に譲れないところというのは常にある。
けども、もっと表情やその瞬間というモノに敬意を払い、目の前にいてくれる人の存在を感じて撮るようになった。
それは、色々な表情を撮るとか、僕にしか見せない表情とか、そういうことじゃなくて。

二人の間にある「間」みたいなものを考えるようになった。

そして仕事をのぞけば、コンディションによって荒れた肌などをキレイに補正することはあっても、
歪みツールなどで造形を変えたりするようなことはしないと決めた。
使うことが悪いことというわけではなく、モデルの方から使ってほしいと頼まれることもある。
でもその人そのものが美しく見える瞬間を自分の手で写したいと思っているから、それが撮影時にできなかった時点で、「その失敗は甘んじて受け止めよう」と考えています。
それが「今」を写す機械として生まれたカメラに対する、自分なりの敬意かなあと。

撮るというよりも、写す

model / Noncho
model / Noncho

「撮る」と決めている時は、仕事をはじめチームでの撮影だったり芸術として取り組んでいない写真として撮っている。
けども、そうでない撮影では、「撮る」というよりも「写す」ということを考えて撮影するようにしている。
観念的な話は好きじゃないので、上手く伝えられず悔しいのですが、「撮る」ということと「写す」ということに、自分なりの違いがあるのです。

もっというと、この撮影はどういう撮影なのか、というのを常々意識するようにしています。

ときには、シャッター音を待ち微動だにしないモデルの前で、沈黙が流れても意に介さず然るべき時に写す
あるときは、ファインダーものぞかず、ライブビューを横目に見ながら会話をしつつ、両の目で見て写す。
ほかにも、お互いに役割を与えて、その中でただ時間を過ごすとか。

かつてはしなかったけども、こういうスタイルを採るようになりました。

こうすることで目に見えて何か結果が違うというわけではないし、いまでも試行錯誤しているんですけどね。
それに気持ちが大事だとか、本質を写すだとかいう観念的な話は好きじゃないし、それを写真の言い訳にはしたくないんだけども、けっきょくみんな自分なりの芯というのがどんな形であれ必要で、オレにとっての芯はこれだったんですね。
それが一番大事とは言わないですが、絵画の代替手段にしたくというその一心で悩み抜く過程こそが大事なんじゃないかと。

しかしその一方で、何も加工せずに出すということが、正義なのかというとそれも違う。
何故ならカメラが映し出す絵は、デジタルである以上、メーカーやソフトウェアベンダーによる「理解」が介入していて
いわゆる「撮って出し」にしても、それは言わばメーカーによって加工が施されたものと等しい。

であればやはり、目の前のあるものに敬意をもって、それを自分が望むように見せることは表現において避けて通れない、道。

例外もある

model / Yumi, muah / Yoshimi
model / Yumi, muah / Yoshimi

例えばライティングを使ったり、極端な加工をしたりという演出は、やはり絵的な需要からくるもので
その写真が何に使われるのか、何のためなのかというのを考えた時に、必要な時はするけども
そうでもない時、ただ撮るというときには考えない。

しかしヘアメイクやスタイリストがいたりする場合は、モデルだけでなく服を考えて撮ったりと、目的が違うし
そもそも、自分が感じているこの写真に対する考えを押し付けるのは忍びない。
だから折り合いを持って、皆が望む写真をフィニッシュまで持っていくというのがカメラマンとしてその場にいる自分の使命。

これはそもそも、話が違うのです。

この点に於いては、ただ写真である必要があるから、如何に美しく撮るかという話に尽きるとおもう。

発想の話

model / Am
model / Am

なので、これはあくまで発想と心構えの話なんですよね。

こういう発想を持つということが、写真と真摯に取り組みはじめて見えてきたことの一つで、この自分との戦いがおもしろい。

いま撮っているモノが、本当に写真である必要があるのかという疑問を常に頭の片隅においておく。
そう立ち返った時に、必要なモノが見えてくる、と信じていまのところやってるわけです。
最後に、共感した好きな文章を引用します。

最初にして唯一の、科学の芸術に対する貢献のかたち

写真とは、現在のところ、最初にして唯一の、科学の芸術に対する貢献のかたちであり、その存在意義は、他のメディアと同じく、その独自性にこそ宿る。
写真にとってのそれは、無条件の客観性だ。ほかの芸術様式にはない客観性こそが写真ほ本質であり、芸術にもたらすことのできる最大の貢献にして限界なのである。

ほかのあらゆる芸術様式に身を置く者たちがそうだったのと同じく、写真家も2,3の例外をのぞいては、自分の扱うメディアの本質を理解していない。
それぞれのメディアの真価は、それを純粋に用いたときにのみ発揮されるものだ。だから例えば、写真の加工や操作などは、無力さの現れに過ぎない。
写真家、そして知的な鑑賞者たちの「写真」という手段への理解や畏敬の念の欠如が問題なのだ。
したがって、写真家の直面する課題とは、写真の限界と可能性とが、同時にはっきりと見えてしまうことであろう。
正直さこそが、生き生きとした表現に不可欠なのだから。

写真を取る時、彼は眼前の物に対する心からの敬意を持たなくてはならない。それらの物たちは、人類の手など及ぶべくもない、無限の陰影を湛えて現れるだろう。
それを忠実に写し取ることは、操作や加工などのない、ストレートな写真技法を通じてこそ実現されるのである。
ほかの芸術様式と同じく、写真とは、同じゴールを目指す違う方向からやってきた新しい道筋にすぎないのだ。
そのゴールとは、とりもなおさず人生である。

IMAより抜粋。- 1917年のフォトセセッション(写真分離派)による機関誌「カメラワーク」ポール・ストランドによる文章の一部

1 Comment

  • これからの人生の中で、迷ったときは何度も読みたいと思える記事でした。ありがとうございます。
    私の実生活や、周りなど色々なことを含め、どうカメラと向き合っていこう、なんでこのカメラを使うのだろうと悩んでいる日々に少しだけ助けられた気がします。
    私がカメラをもって過ごしている中で本当に刺激を受けたのがあきりんさんでした。こうやって今あきりんさんの記事を見つけ、似たような悩みの内容が書いてあることに驚いています。(似たようなというのは、私より高次元での悩みだと思ったためです)

    この記事には新たな考え方のヒントをいただいた気がします。ありがとうございました。これからも応援しています。

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