写真コラム | 人気を得るために自分の写真をまげる必要はない。SNSや写真の評価との向き合い方

人気を得るために自分の写真をまげる必要はない

Web時代の写真活動に大事なこと

先日、東京カメラ部2017写真展 in ヒカリエにて、浅岡省一さん、あきりん斎藤朱門さんと東京カメラ部運営の塚崎さんととで「撮ること、みせること、語ること」と題した、「Web時代においては、写真を撮ることとおなじくらい発信することが大事なのでは」という観点でトークショーを開催しました。

このトークショー開催はなんとなくの流れで決まったんですが、その経緯には、根底にちょっとした問題意識があって、それは、写真撮って発表する活動を行っていると、撮ることと見てもらうことについての関係というか、

「写真撮影して、ああこれはすごく良い写真が撮れたんだけど、ネットで公開しているつもりなのにどうしてか反応がパッとしない、おかしい」
「なんで、どうすればこの入魂の写真を見てもらえるのかがわからない」

みたいに悩むことってやっぱりあって、同じ悩みを持っている人、せっかく素敵な写真が撮れたのに、誰にも見てもらえず鳴かず飛ばずみたいになってるという人は、実はすごい多いのではないかと思ったのですね。

で、このことを東京カメラ部さんに相談をしたところ、「発信する側面の重要性」に関して東京カメラ部さんにも共感していただき、トークショーをぜひやりましょうというお話になりました。今回はその前段のお話を出来ればと考えています。

トークショーの準備に際して、各メンバーのお話とか、Webで発表していく際のコツとか、ベースになる思想とか、考えをまとめていくと、写真活動を行うのに大事なことを、次の6つにまとめることが出来ました:

【Web時代の写真活動に大事なこと】
 ・どういうスタンスで写真と付き合っていくかを考えるのは意外と大事
 ・自分の写真を見てもらいたいなら、広報宣伝は必須
 ・そして、広報それ自体では自分の写真は決して揺らがないのだ
 ・人気を得るために自分の写真をまげる必要はない
 ・発表場所には向き不向きがあって、自分には合わない場所もある
 ・でも、いろんな場所があって、受け入れられる発表場所もきっとある

…こうやって書くととくに目新しい話ではないことが分かるかもしれませんが、順に説明していきたいと思います。

 

写真活動のスタンスを考えてみるのは大事

以前に別のコラム(←いいね!の数と写真の良し悪しはまた別のお話)で書きましたが、Web上には、写真界の超有名人から、ガツガツと貪欲に写真で名を馳せていこう、Webに写真を投稿して仕事につなげていこうという人、また、これから写真をはじめようと思っているという人まで、いろんな人が日々たくさんの写真を放流しています。

ここで、いくらみんな活発に活動して、凄いハイクオリティ写真が沢山流れてくるから…と言って、それに引きずられて、自分も無理して写真を撮ってアップせねば…、みたいになる必要は、決してないのだと、私は思っています。これから宣伝が必要だなんだといろいろ書きますが、そもそも「自分が撮った写真を見てもらいたいのかどうか」を考えるところからがまずスタートだと考えています。

なんか毎回書いている気がしますが、くどくても繰り返し書きます。写真活動のスタンスは全く自由です。他の誰でもない、自分がなりたい姿に向かって、自分がやりたいようにやるのが大事なのだと、こう書くとなんだか自己啓発セミナーみたいですが、本気でそう考えてていて、このことを、私は(私も?)、声を大にしてお伝えしておきたいと思います。

たとえば、野球でいうなら「野球をはじめた人はみんながみんな甲子園を目指し、ドラフト経由でプロへ向かい、ゆくゆくはメジャーデビューするのだ!」って考えてみるとどうでしょうか。
そんなこと全然ないですよね。私は週末に友達と草野球するくらいの楽しみだよね、とか、俺はビール片手に観戦するの専門だから、とか、いろんなスタンスがあってよくて、それが自然です。

写真もそうなのだと思います。写真活動は各人の自由であるべきで、撮ったり共有したりすることについては、もう全くみんなの好きにすればいいのだと、しつこいですが、何度でも僕はここで書いておいて、今回のお話に進みましょう。

自分の写真を見てもらいたいなら、広報宣伝は必須

それでも、「写真を他の人にみてもらいたい!」と思った場合。

これはもう、頑張らないといけません。
何をか。宣伝を、です。

やはり今や、「撮って終わり」ではその希望は叶わず厳しい状況にある、撮影した写真を他人に見てもらいたければ、写真の制作と写真の宣伝・共有はもはや活動の両輪であり、広報活動によって自分の写真を見てもらう努力、というものが必須になってしまっているのだ、ということを言わなければなりません。

なぜか。

というのも、「良い写真を撮っていれば、必ず誰かの目に止まり、自分の素敵写真に相応しい然るべき位置に落ち着く」という確率が、残念ながら、もはや劇的に低くなってしまっているからです。

それは写真が多すぎて、自分の写真に誰かが目を留める、という行為自体が狙わないと達成されないものとなってしまったことが原因として挙げられます。世に知られぬまま消えていく傑作、というものが普通に沢山発生する時代だとも言えます。

したがって、写真を撮るだけではなく、誰かに見てもらいたいという意思を持ってしまった場合、自分の写真を他の人の目に留めてもらうための努力をそれなりに行わなければ、まず見てもらうことは成らない、今はそんな時代になってしまっています。

かくいう僕も、普段から「時々は好きに写真を撮るだけ撮って、やる気なく公開しては放ってるけど、どっかからファンがいっぱい現れてきて僕をちやほやして欲しい」みたいな考えでした。

というか、実は、原稿書きながらもそのスタンスは今なお変わってませんが、それでは実はダメなんだというのが、いやもちろん薄々は分かってましたけど、今回のトークショーの準備を通じていろいろ調べていって、改めて肌で感じました。学びですね。

ですから、特に、写真を撮って発表することでメジャーにのし上がりたいと思ってる人は、積極的に自分を売り込んでいく活動を行うことが必須であるのだと言えるのでしょう。戦いたいのにもじもじしていると、肉食系で広報上等な実力プレイヤーに広告力の差で焼き尽くされて、奪い尽くされて終わるぞ、と。

一方で、普段の生活に寄り添う写真活動を続けている場合で、そんなパワープレーヤーにガチンコで張り合う必要あるの?という疑問が出てくると思います。

その疑問については、「その必要はないです」が僕の回答です。

ここも一つ目のお話です、写真のあり方は自分で決めるべきであり、写真を穏やかに撮っていく生活というのも確実にあって良い形だと思います。

…前段で散々煽っておいてアレなんですけど、実は、奪われる云々、が現実的な脅威になる人々って割と少なくて、どういう人かというと、主に写真を生業としていきたい人々、写真に関わる広報活動を通じて写真の仕事に結び付けたい!という人々だけが対象となるのですよね。

つまり、具現化する脅威というのは、「写真業界での、プロ達によるパイの奪い合い」という状況になります。「同じ写真を撮れる人ならフォロワー多くて拡散力が強い人に仕事をお願いしようかな」みたいな。場合によっては、「写真はAさんの方が素敵だけど、Bさんの写真と拡散力をアテにしたほうがアクセス数が稼げるからBさんに頼もう」みたいになっているそうです。世知がらい話です。
(このへんのお話が興味深いです⇒ http://digiday.jp/publishers/confessions-of-a-fashion-photographer-i-dont-know-anyone-who-isnt-owed-thousands-of-dollars/

じゃあ、例えば、趣味で写真を撮る人々にとってはどうなの、というと、例えばSNSのタイムラインとかで流れてくる写真の傾向がそういう方向に変わってきた、とか、ギャラリーに展示されてる写真の特色が変わってきたよね、みたいな程度のものになるのかなと思います。気分的なもので実害はそれほどありません。

さらに前回のコラムで書いたように、人気の有無と良し悪しは必ずしも一致しませんから、その辺は自分で折り合いをつけていけば良い話と思います。僕自身は、自分の写真を適当にアップして、タイムラインを見てくれる人が時々見てくれて、鬼のようにファボがついて自分の承認欲求が満たされるという夢が見られればとりあえずそれで良いです(わがまま)。

広報で写真は揺らがない

そして、「広報で写真は揺らがない」というお話と、「人気のために写真をまげる必要はない」について。

写真について広報を行う場合に通常危惧されるのは、「宣伝されている写真は、わざわざ宣伝されなければならない程度の、大したことない写真なのだ」という評価が、写真を見られる前に行われてしまうことだと考えています。

ですが、僕はそれは違うと考えてます。

「写真を見てもらうための宣伝行為は、写真それ自体の価値とは無関係である」
「写真を見てもらうための努力は、写真そのものの強度に何らの影響を与えない」

ということを、ここで、個人的に強く主張しておきたいです。

宣伝しようがしまいが、良いものは良いし、そうでないものはそうでないのです、それは宣伝をしたところで変わるものではありません。

もちろん、これが絶対の真理だというつもりはありません。「道端でキャッチしている居酒屋はその時点でもう外れ決定だよね、当たりの店はキャッチなんかしなくてもお客さんが来るんだから」みたいな話をされると、確かにそのように捉える人がいるのは確かでしょう。

…なんですが、宣伝ばかりウザく肝心の中身は空っぽなものがあふれる一方、本当は大当たりなのに、なんら宣伝をしないがために、誰にも知られないまま潰れて消えてしまう、という例もまた、山ほどあるわけです。

この辺のお話で危惧される、押し売り的な広報宣伝をやって、のべつまくなし何でも自分の写真を押し付けるように売り込む輩、みたいな話は、広報活動中の品位として気をつけるべき側面、戦術論だと私は考えています。

「宣伝活動なんかすると俺の写真の品位が下がるし」的な意地をはってしまうこと、また、写真評価への悪影響を気にしすぎて、広報宣伝の努力そのものを軽んじてしまうこともまた、その写真が珠玉であればあるほど、もったいないと思います。

写真が良いならば、その良さに見合った宣伝をしても良いのではないかと、私は最近そう考えています。誰にもみられることないまま写真がただ朽ちていくのは、やっぱり寂しいです。

人気を得るために自分の写真をまげる必要はない

4つ目の「人気を得るために自分の写真をまげる必要はない」というお話は、どちらかというとまげるべきではない、と言っても良いかもしれません。何を気にしているかというと、写真活動を続けられるか否か、という側面です。

あくまで、人気というのは結果であり、目的ではないのだと、写真を撮って発表していく時の目的と結果を入れ違えてしまい、人気を取るために(自分の撮りたいものでなく)人気が取れる写真を撮っていくようになると、きっと続けていくのが辛くなってくる、自分が何をやっているのかが分からなくなってくる、というお話です(この辺はトークショー中、東京カメラ部運営さんの方でも繰り返しお話がありました)。

さらに、やはり写真を撮っている人が沢山いるように、写真を観ている人もまた、沢山います。Webで、リアルで、いろんな趣味嗜好の人が写真を見ています。きっと、自分が提示する写真の志向に合う人々、共鳴してくれる人、理解を示してくれる人は、片隅かもしれないけれどもきっといる、私はそう考えています。

たぶん、私以外の、写真を撮っている人もそう信じている人はいっぱいいるのだと、そう思います。ここが5つ目と6つ目のお話です。もちろん、みんながみんな、必ず自分の写真を見てくれる訳ではないことは確かです、場所によっては空気みたいな扱いになってしまうかもしれない、見てもらえても何も反応してもらえないかもしれない、でも、必ず、どこかに写真に共感を、理解をしてくれる人はいます、きっと、きっと。私はそれは真理だと、そう信じています。

具体的な発表の場がどこなのか、どこがどういう特徴を持つのか、という各論については誰かが別のところできっと書いてくれるでしょう。ちょっと本稿長くなりすぎたので、このお話は今回やめておくことにします。

あなたの、私の、写真活動のあり方は

…結局、今回のお話、写真を生業にすることを含めバリバリ戦いたいか、趣味として写真を楽しんでいきたいか、どちらの方向に軸足を置くかで、僕の提案は変わってくると思います。

既に写真をバリバリやってる人に対しては「もうこのご時世、写真の広報も活動の一環に含めてやってかないとしんどくなりそうですよ」というお話になり、これから趣味で写真をやりたい人に対しては「写真は撮るだけで終わるんではなくて、もう一歩踏み出して、誰かに見てもらうという活動をすると、見てもらって反応をもらって、意外だったほどに世界が広がりますよ」というお話になると考えています。

全体をまとめてマイルドな提案に形作ると、

「結局は自分が撮りたい写真を撮っていくことをベースにすれば良い、評判に媚びた写真を、自分をまげて撮っていく必要はない」
「写真活動と生活と仕事のバランスポイントを探っていく中において、写真活動の領域内に、写真を撮ることと同時に写真を共有していく/発信していくという側面も含めて考えてみては」

というお話になるのでしょうか。いちどそのあたりについて、自分の写真のスタンスをどうしていこうか、そのあり方について考えてみるというのも良いと思います。
それでは。

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