言葉と写真の関係:あるいは懐かしき黄金時代のJ-popへ捧げる

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言葉と写真の関係

言葉と写真の関係:あるいは懐かしき黄金時代のJ-popへ捧げる

言葉の恣意性

かつてあるミュージシャンが歌ったように、果てしない闇の向こうに手を伸ばして見たところで、Tomorrow Never Knowsなわけです。
僕はその歌詞を初めて真面目に読んだとき、ツツゥーーーと涙が頬を伝いました、なんて絶望的なんだろうと。
どんなにがんばったって、結局正解はない。
明日は誰にもわからない、神様にもわからない。いい歌詞ですね。

そして人生について歌うその歌詞は、言葉そのものの成り立ちをも示唆しています。
言葉というのは、手を必死に伸ばしたところで、向こう側にある現実にたどり着けない性質を持っています。
難しい言い方をすれば、「言葉の恣意性」といいます。
つまり犬が犬であるのは、犬という言葉がネコでないからですね。
あるいはキュウリでないし、ボートでもないからです。
犬という言葉は他国ではdogと言われてたりすることからも分かるように、結局のところ、そう言われているからそうであるという約束事に過ぎません。
だから言葉というのは真実とも事実とも基本的に何も関係がない「仲介物(英語にするとMedium、つまりメディアですね)」なんです。
ウォッオー!手を伸ばそー!でもどんなに手を伸ばしたって、果てしない闇の向こうにたどり着くことはないんですね。
あ、わたくし泣きそうです。

写真もまた仲介物

ほら、じわじわと写真に近づいてきたでしょう。
「え?どこが?」ですって。みなさんが使っているそのカメラから出てきた写真。現実とはほとんど何も関係ないですよ。
写真もまた、現実という被写体を伝えるための、あくまでも「メディア=仲介物」でしかないんです。
光がカメラのレンズを通してセンサーにその情報が記録される。
それを解釈したセンサーが三次元の空間要素を二次元に変換する。
それを我々はRawファイルで受け取って、LightroomやらPhotoshopなんかでエンヤコラと現像する。
ああ、なんてこと!レ・ミゼラブル!
現実の被写体と、我々の写真の間には、一体何人の、何個の「仲介物」があることでしょう!!!!!遠いね、ママミアママミア、世界はどこまでも遠いよ!

言葉が現実を忠実に代理しているように見せかけて、実はただの恣意的な社会的ルールであるのに似て、写真というのもまた目の前の光と闇を忠実に取り込んでいるように見えて、結局機械が受け取って解釈した、現実のまがい物でしかないんです。
そしてね、僕が一番言いたかったことはここなんですが、

「なんてそれは素晴らしいのだろう!」

ということなんです。

「かもしれない」世界を、写真として見せることが出来る

言葉が現実そのものだったら、そこにあるのは完璧な絶望です。間違うことさえ許されない、「正しい世界」。
椎名林檎がそんなことをかつて歌ってましたっけ。
そんな息の詰まる世界はまっぴらです。村上春樹がかつて『風の歌を聴け』の冒頭でこんなことを語っています。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

この文章の意図は、適切に補足するならばほんとはこうなんです。
「完璧な文章が存在しないからこそ、完璧な絶望も存在しない」。
写真も同じです。写真が常に「正解」を提示して、現実そのものを写し取る最強の記録装置だったら、なんてそれはつまらないのでしょう。
僕らは間違って、失敗して、でもそこから生まれる何か奇妙な、面白い可能性にふっと気がついて、現実とは似ても似つかない、自分の見た「かもしれない」世界を、写真として見せることが出来る。
あるいは言葉として伝えることが出来る。
その可能性の美しさと素晴らしさ、豊かさ!!神様は何も禁止なんかしてない、愛してる、愛してる!!(あれ、これは違う歌詞でしたっけね)

というわけで、一つ目のテーマ「言葉と写真の関係」、おしまいです。このエッセイはこんなふうに、一見あまりつながりのなさそうな何かを写真に強引にくっつけてしまうことで、読者の皆さんに写真の「違う側面」をチラリと見てもらえるようなそんな文章に出来たらなと思っています。
しばしお付き合いください、毎週2分だけでもいいですので。俺の、俺の、俺の話を~

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