写真と文学 | 言葉と写真の関係

こんにちは、別所(@TakahiroBessho)と申します。
東京カメラ部の10選に2014年に選ばれてからはその肩書で色々な媒体に使っていただいてますが、今回縁あって、ヒーコの方でも書かせていただくことになりました。

すでに素晴らしい書き手の皆さんによる、とても興味深く勉強になる記事群に屋上屋を架すのも無粋ですし、このヒーコでは僕の得意な方面で、わりとやんわりぶらぶらと、最近写真界で流行っている言い方をさせて頂くなら「ゆるふわ」な感じで書かせていただこうかなと思っております。

言葉と写真の関係

はじめに

テーマは「ほにゃららと写真の関係」シリーズということで、色んなものと写真を強引にくっつけて、写真をもっと開いて拓いて啓いて行っちゃおうという企画です。
皆さん、コーヒーや紅茶をお手元に置いて、チョコでも食べながらぜひご覧になってくださいね。
一説では、語りは騙りと申します、騙されるのもまた一興。
裏付けも確信もない、ピリオドの向こう側のお話です。

そういえば・・・

さて、第一回は言葉と写真の関係についてお話します。
というところで、なんと驚きました、文字数が尽きてしまいました!なんともびっくりです。
昔読んだ小説に『トリストラム・シャンディ』という18世紀に発表された奇妙な奇妙な小説があるんですが、第一話は「自分がしこまれた」ところから受精卵が語りだすという形になっていて、全9冊の長大な小説の中で主人公のトリストラムが登場するのは四巻目なんですね。
ほぼ半分、無駄話。
そういえば19世紀のアメリカの小説ハーマン・メルヴィルの小説『白鯨』も、本編に関係のないクジラの解剖所見がずっと続く小説でした。そういえば、そういえば、そういえば・・

終わりなき脱線の旅路

さて、そういうわけで本題に辿り着く前に終わってしまった第一回。
でもね、でもですね。
これが写真なんだと僕は思っております。
そして言葉もまた、同じく。それは常に、終わりなき脱線の旅路であるのです。
言葉と写真の奇妙な関係、次はそれについてもう少しちゃんと騙りましょう。

間違いました、語りましょう。

では皆さん、アテブレーベ・オブリガード。

言葉と写真の関係/次話へ続く

続編はこちら

言葉と写真の関係:あるいは懐かしき黄金時代のJ-Popへ捧げる

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