写真と文学 | この広すぎる世界に写真家として対峙する。

前回の続き

写真と銃、あるいは「見えない自由」

この広すぎる世界に写真家として対峙する。

shootするものか、takeするものなのか

被写体を撃ち抜くものとしてのカメラ

Shootという単語を辞書で引くと出てくるのは「撃つ」から始まって、「発射する」「投げる」「芽が出る」など、言葉の基本イメージは、向こうにあるものをめがけて、そこに向かって一点集中で突き抜ける感じですね。
英語の単語というのを皆さん人生のどこかで山のように覚えた記憶があると思いますが、英語の単語、特に動詞に関して言えるのは、単語の持っているイメージを意識して覚えると、効果的に使えるようになります。
shootのイメージは明らかに向こう側を撃ち抜く感じで、そしてそれはshootの元の単語である古英語の単語sceotanから変わっていないんです。
写真にこれが使われている意味もわかります。向こうにある被写体を撃ち抜くものとしてのカメラ。

被写体をカメラの内側に「取り込む」

それに対してtakeは、あまりにもたくさん意味があります。
「持つ」から始まって、「連れていく」だとか「理解する」だとか、とにかく数が多い。
基本単語なので仕方ないんですが、これも実は一つの単語イメージを強く持つと、大体の意味が把握出来ます。
takeは基本的には、向こうにあるものを「つかんで持ってくる」イメージです。
shootが向こうにあるものをこちら側から「撃ち抜く」感じだとするならば、takeは、向こうにある被写体のイメージをカメラの内側に「取り込む」感じです。
ね、全然イメージの方向が違いますよね。
皆さんの写真はtakeするものなのか、それともshootするものなのか、どちらのイメージでしょう。
私はあきらかにtakeの感じです。イメージを自分の方向に持ってくる感じ。

自分が「見た」世界

正反対の性格を持つこの二つの単語がどうして「写真を撮る」という、人によってあまり大きく動作が変わらない行動に使われているのか、その理由を説明してくれる学説はありません。
ただ、想像はできるのです。
shootにせよtakeにせよ、表面的に正反対に見える意味の、さらに根本にあるイメージは、狭い場所に囲い込む感じです。
shootもtakeも、広い広い世界の「一点」を、どうにか自分の元へと持ってくるための単語なのです。
現代のカメラを使う我々におなじみの瞬間、シャッターを切ったら、四角く囲まれた背面液晶に、自分が「見た」世界が写っているイメージ。
takeとshootが、カメラの背面で出会う瞬間でもあります。

世界の見える化

それは「世界の見える化」と言い換えることが出来ます。

この世界は広い場所です。広すぎると言ってもいい。
そうした広すぎる世界に対して、我々写真家はカメラという機械を持って対峙します。
shootの人々は自らの手をのばすように、自分の撮りたい画を切り取ってカメラの中に封じ込める。
takeの人々は、自分が思い描く風景をじっと待ってそれがうまくレンズの前に現れた時、幸運に恍惚となりながらその瞬間をカメラの中に封じ込める。切り取って、囲って、閉じ込める。
その時世界は、初めてカメラを通じて「見えるもの」に変貌するのです。

僕らは、周りの世界なんてまったく見ていない

まだ説明が足りませんね。こういうことです。
よく写真を展示していると、「こんな場所が家の近くにあったの知りませんでした!」と風景写真家の皆さんは言われることでしょう。
僕自身でさえ、人の写真を通じて、普段生活している街に「こんな素敵なところがあったんだ!」と初めて気づくことが多いのです。

つまり、僕らは、普段生きている時、周りの世界なんてまったく見ていないんです。

毎日歩く世界は、見るにはあまりにも広い。
美しさと驚異に満ちているはずの身の回りの世界は、日々の生活の中でただ通り過ぎていく「背景」になって、改めてそこを見ようなんて誰も思わないのです。
それを我々写真家は、カメラを使って「見る」、あるいは「見せる」。撮るまで気づかなかった、見えなかった世界は、シャッターを押した瞬間「見える世界」となって我々の前に初めてその潜在的な美しさの本質をあらわすのです。

「見えない銃」

ブルーハーツはかつて弾の出ない「見えない銃」を撃つことで、「見えない自由」を夢想しました。
自由は見えないし、見えないからこそ貴重だし、達成できないからこそ美しい。
その最初から負けの前提された宿命を彼らはちゃんと直感的に理解していました。
我々カメラを持つ人間もまた、何十回も「見えない銃」を打ちます。
カメラもまたshootするものだから、あながちそれはただの比喩ではありません。
カメラは我々写真家にとってこの広すぎる世界を前にしたときの心強い相棒、「見えない銃」なんです。
ブルーハーツの歌った「見えない銃」と同じく、弾は出ませんが、いつかその向こうへと届くことを夢想して放たれる我々写真家の歌なんです。

世界を見ることが出来る自由

でもブルーハーツの「見えない銃」と我々写真家のそれが決定的に違う点が一つだけあります。
それは彼らが繊細に「見えないまま」にしておいたものを、カメラはなんと「見えるもの」へと変えることができる。
自分自身でさえその美しさに気づいておらず、見ることさえしていなかったその世界を、「見える世界」へと変えることができるのです。
そしてそれは「見る自由」でもあります。どんなふうにも世界を見ることが出来る自由。
ほとんどそれは、シャッターを押すたびに世界を新しく作っているに等しいと僕は思っています。
そのような素晴らしい可能性こそが、写真とカメラに与えられた最高の力であると僕は信じているのです。

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