写真と言語の密接な関係 – 語られる写真

こんにちは、タンノトール(@tang40)です。本稿では写真にについて書かれた文章、“語られる写真”のことをお話してみたいと思います。

写真と言語の密接な関係 – 語られる写真

「O嬢の物語」

テーブルの上に垂直に落ちる陽光が、写真の端を反り返させていた。

Histoire d’O (1954) -Pauline Reage-
O嬢の物語 -ポーリーヌ・レアージュ- 澁澤龍彦

語られる写真

写真はまだ若い形式、未だ充分な検討がなされていないジャンルであろう。

文芸、音楽、絵画、彫刻、建築、様々な先行する芸術に比して写真はその誕生から二世紀にも満たない時間で世界に浸透した。

「豊かな批評の土壌がない」と言ったのはソンタグであったろうか、尤も現代に於いてはベンヤミンが「コノ地所貸シマス」注*1 で指摘したように誰もが当事者意識を抱く社会では批評は居場所がないのかもしれない。

可能なかぎり「写真を撮らない人の写真についての言説」を取り上げてみたいと思ったのだけれど、昨今の浸透(誰もが写真を撮る)をみるにいささか難しいのではないかとも思う。

「O嬢の物語」は写真がまだ、現代ほど当たり前に在るようになる以前にポーリーヌ・レアージュによって書かれた。

なんとも印象的な文章でこれほど写真のある風景を美しく記述したものも稀ではないだろうか。

いずれにしても「語られる写真」あるいはステートメントや主題について技法との関係も含めて文章にすることを試みてみようと思う。

舞踏家との出会い

OLYMPUS E-3・ZUIKO DIGITAL ED 12-60mm F2.8-4.0 SWD

冒頭の写真を撮った当時、僕はまだカメラを手にして2年に満たない頃だったと思うが、撮るべきものはおろか撮りたいものすらないままに、なんとなく“写真界隈”の人々を遠巻きに眺めていました。

そんなときにふと何かのブログで舞踏家/パフォーマーである実験躰ムダイ氏の存在を知り、彼女のステージを観に行き、観終わるとともに撮影依頼をしてしまったのです。

思えば無謀な話であるが氏は快諾をしてくださり幾度か酒まじりに身体論や舞台芸術についての話をしたのちに、この撮影を行った。

このときの撮影に関する打ち合わせは以下に記したものだけである。

「撮影の都合上明るくするが、暗い舞台の上だと思って踊ってください」

「カメラの存在は無いものと考えてください」

舞踏する身体を撮る。重要なことは可能な限り踊りに影響を与えないようにすること、そして動きとフォルムをその瞬間にもっともふさわしいシャッタースピードで(舞踏の場面では時間の流れは観念に支配され従属する)撮ることだった。

そのような要件を満たすのは定常光によるライティング、部屋のすべての場所で1/640程度のシャッターを切れる環境を用意した。

予想不可能な即興舞踏で自在なシャッタースピードを可能にするには環境光そのものを明るくすることが最善の選択(瞬間的な強い光・フラッシュの使用はパフォーマンスに影響を及ぼすと考えた)と判断した。

氏は持参の音楽をループ再生し、自分の身体を舞踏に供ずるかのように立ち止まり、振り向き、あるいはしゃがみこんだりと身体を動かしていたが、まだ「舞踏」は始まっていないことは明らかだった。

いつ始まるともしれない「時」を待ちながら氏の腕や足、様々な部位を注視しているとそれは突然始まった。

「身体の運動」「舞踏」に変わったのだ。それはまさに器官なき肉体、魂のない身体だった。僕はシャッターをきり始めた。いつ、どこを撮ればいいのかは考えなかった。

それは舞踏が教えてくれた。その時僕は舞踏の一部になっていたから、考えることも感じることなかった。そうして舞踏が終わった。

主題となる概念

しばらくは二人とも何も言わずその場に佇んでいたが、ふと「終わるのがわかりましたね」、氏は僕にそう言葉をかけてくれました。

即興での前衛舞踏、始まりも終わりも決まっていないパフォーマンスで我々は確かに通じあったという証左はこの上なく嬉しいものでした。

このときの体験からしばらくの間、僕は「造形としての身体」というテーマで写真を撮るようになりました。今では異なる主題で制作を行っていますが、主題となる概念をつくり、作品世界を設定してビジュアルをイメージする。感じるままに、あるいは眼に映るものを撮るのではなく、はじめに言葉ありき、つまりステートメントや主題を用いて撮影を行うといった手法です。

こういった手法は写真という大きな可能性の一部でしかありませんが、思考や感情の言語との密接な関係に考えを巡らすことは作家を形作る上で重要な要素になることと思います。

(続)

SPECIMEN

これらの写真は「Subterranean」というシリーズの作品世界に存在する植物や鉱物、そのほか様々なマテリアルの標本 -SPECIMEN- というテーマで制作したものです。

「Subterranean」シリーズとは

「Subterranean」の主題は以下のようなものになります。
写真の登場以前、博物誌(あるいはその類い)には版画がつかわれていました。記録にはイメージが混入し記憶を想像が補完し、そうして実現された銅版画(プリニウスの博物誌、デューラーの犀など)。あくまでも“現実の記録”として用いられたそれらの挿絵のなんと美しい事か。

現代は地図からは空白地帯が消え未知の風景を求めることが困難な時代ですが、より現代的なアプローチとして技巧によって創出される未知の風景が構築する“もう一つの世界”の博物誌を制作する試みです。

注*1【批評の凋落を歎くひとたちは、おろかだ。というのも、批評の刻限はとっくに終わっているのだから。批評するには正しく距離を取らなければならない。批評は、遠景や全景が重要であるような世界、ひとつの立場をとることがまだ可能であったような世界に、住みつくのである。】

Pocket
LINEで送る

0 replies on “写真と言語の密接な関係 – 語られる写真”