続・「自分が〇〇と感じて撮った写真」と「観た人が〇〇と感じる写真」は違う

このエントリーをはてなブックマークに追加
Pocket

続・「自分が〇〇と感じて撮った写真」と「観た人が〇〇と感じる写真」は違う

Photo1

前回、「観る人に〇〇と感じて欲しいなら、観た人に〇〇と感じさせるためのきっかけを写真に埋め込むのだ」ということを書きました。

「自分が〇〇と感じて撮った写真」と「観た人が〇〇と感じる写真」は違う

今回はその一歩先にある、似ているようで似ていないちょっと似ているお話、

「自分が、観た人に〇〇感じて欲しいと思って撮った写真」が「観た人が〇〇と感じる写真」とは限らない、というお話をします。

前回のお話のように、観た人のことを考えて、きっと観た人は〇〇と感じてくれるにちがいない!と思ってみせてみたのに、観た人からは〇〇という感想が返ってこない、あれれ、というお話です。

これは、いろんな要素があるのだろうと思います。
先に書いてしまうと、「写真を出す側のスキル不足・考慮不足」と「写真を観る側の注意不足・知識/スキル不足」の両方の原因が考えられると思いますが、今回は、まずは撮る側の話をします。写真(あるいは写真に限らず)を観る人、つまり鑑賞者に求められる技量、というお話はまた別の機会にお話できればと思います。

ごく単純に考えると、「自分が撮った写真で、観た人に〇〇と感じて欲しいと思ってもらう」ための写真には、「〇〇と感じてもらうための要素」が映っている必要があります。前回に書いたお話です。
なので、〇〇を観た人のなかで思い起こさせる、そのためのきっかけとなり得る要素を入れることになる訳ですが、その際、

  1. 要素がノイズに埋もれていて、観た人が要素を抽出できない
  2. 要素がきっかけになったとしても、観た人が〇〇を思い起こしてくれない

の大きく2つパターンで、伝わらない写真は出来あがっていくと考えられます。
では、どうすればこのパターンに嵌まらずに、伝わる写真にできるでしょうか。

P

なぜ〇〇と感じてもらえないのか?

まず1.のほうは、別のコラムでお話をした、「写すものと写さないものを判断しましょう」のルールが有効に機能します。ノイズを排除してやればいいんですね。

次に2.のほう、要素がきっかけになっても〇〇を思い起こしてくれない、ですが、これはいったいどういうことか。これが今日の本題です。

思考実験のようなお話になりますが、一枚の写真を考えてましょう。なんでもいいんですが、例えば、まぁ、なんかリンゴが写ってます。さて、ここで写真から、撮影者が林檎で何を表したかったのかを推定するとします。

たとえば、リンゴを写したそのこころは、「赤さを感じて欲しかった」。まあ、それってダサくないか云々は置いておいて、それは納得できるところです。

じゃあ、「初恋の甘酸っぱさを感じて欲しかった」ならどうでしょう、分からんではないですか、ちょっと説明足りない感じがあるというか、少し飛んじゃった感がありますか。

では、「若き日のニューヨークの思い出を回想した」だとどうでしょうか。「何言ってんのこのおっさん」となるかもしれません。人によっては、「ニューヨークの愛称として Big Apple と呼ばれることがある」という知識があれば、写真のなかにある他の手がかりとの合わせ技で辿り着いちゃう人もいるかもしれません。

もうちょっと行って「お土産にもらったピーナッツバターの滑らかな舌触りを表現した」だと、ちょっとこれはもうさすがに伝わらないのではないか、そう思います。

Photo3

鑑賞者は写っているものからのみ、感想や印象を作り出す

…写真を観た人は、当然ですが、必ず、その写真に写っているもの(場合によっては写っていない、写されていないもの)からのみ、感想や印象を作り出します。

したがって、“観た人が写真を視界にとらえた時に、写真の中の要素が〇〇へと至ることができる道筋”が現実的な範囲で、写真には要素を配置する必要があります。

もちろん、具体的・論理的に説明できる道筋、単純な伝言ゲーム的なものだけに留まる必要はありません。写真を観たそれぞれの人が持っている道筋のバリエーション、すなわち「解釈」は様々なはずで、完全に一致すると考えるのは逆にナンセンスと言っても良いかもしれません。

むしろ、その解釈のバリエーション、解釈のぶれ、ずれこそが写真を観る際の多様性や楽しさにつながっていく醍醐味でもあります。

一応お断りしておくと、写っているもの、というのは、具体的な何かとは限りません。暗い中に一筋きらめく光の筋だったり、緑の中に映える強烈な赤のワンポイントだったり、何が映っているのかは判然としない中にあるコントラストだったり色彩だったりする可能性もあります。ですが、なんであれ、写真のなかの構成要素を見ていることは間違いないのです。

ひっくり返せば、写真に写るすべてのものが、観た人のなかで何かしらの感情の引き金を引いてしまう可能性を持っている、とも言えます。写真にノイズを入れてしまうと、そのノイズが観た人に何かの影響を与えてしまう懸念があるということになります。

「写したいものを写して、写したくないものは写さない」は、ここでも機能するお話だと、私は考えています。

それでは。

バックナンバー

写真には自分を変える力がある

写したいものを写して、写したくないものは写さない

「自分が〇〇と感じて撮った写真」と「観た人が〇〇と感じる写真」は違う

co1氏のセミナーはこちら

11/4(土)みる・撮る・みせる。SNS時代に「自分の写真」を制作し続けるための戦略論

Written By
More from co1

写真鑑賞と囲碁観戦

Index1 写真鑑賞と...
Read More