写真の未来

2月と8月は暇という話をかつて聞いていたような気がするんですが、社会のルールお構いなしに忙しぶっている2月を過ごしていました。黒田 @crypingraphy です。ところで真実を写すと書いて写真と読みますが、PhotographyというのはPhoto + Graphy で、「光」 + 「画風」といった語源をもつと何処かで読んだことがあります。専門家ではないので詳しくは知らないんですけど、ずいぶんと違うもんですね。

写真の未来

異業種から写真の世界に片足突っ込んでみて、写真って何なんだろうと考えることが増えました。趣味で撮影していた時は何にも考えずに撮っていて、ただ楽しいというだけだったんですけど、仕事にもなって自分自身と重ね合わせるようになると、想像も膨らんできます。

今日はちょっとコラムという形で普段考えていることを言語化してみようと思います。

21世紀の真価

20世紀後期からインターネットが社会に少しずつ浸透してきて、ITバブルが訪れ、全世界的に社会の勢力図がガラッと変わったと思うんですが、当時自分はただの高校生でした。いまはネットネイティブな高校生がもう社会人となっている世代で、様々なインターネットによる可能性も実用的な姿となって社会に浸透しています。

テクノロジーが我々の生活を変えたんですけど、インターネットに限らず、こういったパラダイムシフトは起きていて、写真にあてはめてみるとフィルムからデジタルとかとか。

そして黎明期以前のインターネットのように今、水面下でうごめいていると感じるのは、データ主義ブロックチェーンディープラーニング、そして5G。専門家ではないので、それぞれについて詳しいわけではないのですが、いずれも何処かの誰かが実用的発想をもって動き出せば今の写真界における構造を変えるだけの破壊力と可能性をもったテクノロジーです。

少なくとも断言できるレベルで我々の生活は変わると思っています。20年に一度くらいのペースで起きる変革です。その規模の変革が起きた際に、写真業界が変わっていないはずがないんですよね。

真実を写す

日本語で言う写真とは、真実を写すこと。語源がこの通りかどうかは知りませんが、デファクトスタンダードとしてこういう考え方は日本人には受け入れやすく、浸透しているように思います。しかし現実的にはPhotoshopに代表されるソフトウェアの発展によって必ずしも真実とは限らなくなってきました。CGといったその他技術の発展も目覚ましいです。

Photo + Graphy(光 + 画風)という単語なら、いまの写真を説明できるかもしれません。物理の法則と考えれば。しかしもう「写真」という単語自体では説明しきれないケースが出てきていると思うんですよね。

現実レベルの問題として、「シャッター押して撮ったものがそのまんま写真」という時代でいられるのだろうか、という素朴な疑問があります。

写真表現と写真の可能性

さいきんおもしろい記事を読みました。

COLOSSAL

Long Exposure Photos Capture the Light Paths of Drones Above Mountainous Landscapes

COLOSSAL

シカゴ在住のReuben Wu氏の作品を紹介している記事なのですが、おもしろいですよね。これはドローンにライトを積んでその軌跡で表現しているそうです。まるで宇宙のような感じですけど。他にもドローンにライトを乗せて照らしたりしているそうです。平昌オリンピックでのドローンによる光のショーのように、ドローンを使用した表現は色々ありますけど、すごく見ていて心地よい写真です。

Reuben Wu
http://reubenwu.com/home

そしてもう一つ。

Exposure Guide

Light-Painted Shapes and Long Exposure Landscapes

EXPOSURE GUIDE

そちらこちらも、ドローンによるライトペインティングですね。Martin Kimbell氏の作品。LEDライトを乗せて長秒で撮影した幻想的な写真です。

Martin Kimbell
http://www.martinkimbell.co.uk/

これらの記事を読んで、オレがまず思ったのは、「CGのようにキレイ」という感想。CGだと思ったとかではなく、見慣れた景色ではないがゆえにCGやデジタルグラフィックのような錯覚を受けたんですね。もちろん違うんですけど、ここで少し意地悪に考えてみます。

いずれもドローンペインティングを抜きにしても、Photoshopによる著者の表現に必要な加工というのは含んでいると思うんですね。もし使っていなくてもデジタルカメラのメーカーによるトーンや色味の解釈が介入しています。さらに言えば、まず考えられないですがフィルムで撮影していても、フィルムの現像工程でトーンの調整など人の手が工程に含まれている。

問題は、そのPhotoshop工程と後述する発想に、どれくらいの境界があるのかというところです。

何が言いたいかというと、いずれにせよ写真である以上、鑑賞者が目にする前に著者が意図しようとしまいと、ビジュアルとなる前に人の手は入っているということです。ちょっと明るくしているのか、不要なエレメントを消しているのか、表現したいエレメントを足しているのか、編集の多寡は人それぞれでブラックボックスですけど、何らかの手は入っている。

これは全て表現という言葉に集約されると思っています。もちろん写真は、そこにあるものを写しているので、この表現がファースト・プライオリティではないんですけど、味付けというのも避けて通れるものではないということです。

表現と創造の境界

例えば、Reuben Wu氏の作品の一つ、山の上にドローンによる光の軌跡が写っている写真。

ものすごく失礼な事を言うかもしれませんが、これ、Photoshopで足そうと思えば足せそうなエレメントですよね。

いや、ほんと、すみません。心の底から好きな写真だし、そういう発想もあるのか〜と初めて見た時は驚いたんですけど。そういう風に考えることも出来ます。Reuben氏の表現として尊重されるべきアイディアと取り組みであり、そして結果でもあるというのは異論の余地もないですが、現実問題としてその他のソリューションで実現可能なビジュアルであるという点に、ものすごい恐ろしさを感じたのでした。

例えば、同じように合成した写真で異様に大きい月とか、海の上に立った人とか、常識の範囲で義務教育レベルの常識を備えていれば非現実であることがわかるような写真なら、非現実と認識できるんですけど、夜景に光の軌跡がついていたり、空を反射したウユニ湖だったり。

こういう、現実と認識できなくもないレベルの写真もあって、それを今回のドローンのように実際に合成なしで表現として撮っている人もいれば、合成して創造として撮っている人もいる。

これが本題です。

良し悪しの問題ではないけども

これはどちらが良いとか、どちらが悪いとかそういう事を言っているわけではありません。

表現として誰も見たことのないイメージを撮る人、創造として誰も見たことのないイメージをつくる人。

洒落た言い方をすれば、同じ写真でも前者は写真家の領域かも知れないですけど、後者は写真家だけの領域ではないのではないかということです。例えば映画のCGなんかそうですよね。他にも広くデジタルグラフィックに精通したアーティストというのがいて、そういう人の領域。

いずれも専門性を伴うものなのですが、料理人と薬剤研究者くらい違うというか。

そして、今は後者の技術が写真に比べて、取得難度や参入障壁が高いというのは写真をやる人であれば広く知るところではありますけど、この難度が今後の技術発展によって下がったりAIによるサポートが一般ユーザーレベルにまで浸透した時に、写真はどうなるのだろうということです。

先程書いたように、表現の一種として味付けをするというくだりについても、表現と創造というレイヤーで眺めた時に、一部分だけを明るくするということと、山の上に光の軌跡をつけるという行為にどれだけの差があるだろうかという疑問です。平たく言えば、どうせ現実とは異なる表現に至るのであれば、軌跡をつけようが一部分だけ明るくしようが同じでは? 大事の前の小事というか。

写真家の魂

例えば、Googleが複数の写真を合成してクオリティをあげる開発を発表したりもしています。先日Adobeが発表したAdobe Senseiなんかもディープラーニングを使用した技術だと聞いています。

これらの技術が大量のデータを元に実用レベルに降りてきた時、写真の価値というのは記録性がより重要視され、写真的創造性が軽視されてしまわないかという懸念があります。そうなった時、丹精を込めてその一瞬にかけて、いま創造しているReuben氏の魂は何処へいくのだろうかという漠然とした不安があります。

こういった未来はそう遠くないと思っています。

結果として、撮影時に努力しようが、撮影後に努力しようが同じようなビジュアルにたどり着ける時、我々はどうしたら良いのか。これらの待ち受ける未来に対してどのように対処したら良いのか。

個人的な考えはこうです。

写真家のアーティスト化

アートギャラリーで展示しているかどうかを基準に考えた時、芸術家として写真家が認められているかと言えば一握りだと思います。でも近い将来、記録的側面を排除して写真表現をしている人は多かれ少なかれアーティストになっていかなければならないのだと思います。

つまり、結果として残された写真が、本人の撮影時における努力なのか、本人または共同作業者によるオペレーションなのか、それともAIがはからってくれた結果なのか、今は想像も及ばない方法なのかはともかく、同じような写真を創造またはリコメンドされる時代になった時に、残っているのはアーティストとしての想像力や創造力、またはステートメントでなければならない。

なんとなく、「おっ」と言われる写真を撮っているだけではこれからはきっと駄目で。

いまご活躍中のフォトグラファーにもこういう側面が既にあるような気もします。

諸行無常を切り取って価値を保存するか、そうでないかの二極化はすすむでしょうし、より意識されることになるんじゃないかなと思います。そしてステートメントというものが、より大切になってくるのではないでしょうか。何故撮っているのか。そういう意味では、人を撮っているということは、諸行無常の典型みたいなところもあり、ポートレートフォトグラファーとしてはより有り難みを感じる部分でもあります。

世の中では例えば車の広告なんかは殆どCGとなっているようですし、先日もとあるアフリカ系の黒人モデルが実はCGだったということで騒ぎになっていました。こういうことはより加速して、我々の価値観もアップデートされて、数十年後にはこの記事が今の価値観の証明になったりするかもしれません。

そんなことを日々考えています。

ステートメントの重要性とは

ステートメントの重要性については、co1さんのこちらの記事も是非読んでみてください。

一瞬に賭けて写真であろうとしている現代の写真家たちが過去とならないよう、自分は何ができるのか?これからも考えていきたいです。

ではでは

写真にタイトルやキャプションをつけるかどうかは撮る人が好きに決めて良い

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