ピンクのハートはなぜカワイイ!か

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ピンクのハートはなぜカワイイ!か

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何かをみて感想を述べる場合を考えてみましょう。

例えば、僕はそういう経験ないんで良く分からないんですけど、みんなで都会のオサレ高層マンションに集まってホームパーティしたとして、主催の人が「ジャーン!」とか言いながらでっかい天然一枚板テーブルに誇らしげに白いケーキの紙箱を置いたとします。

開けられた箱の中から取り出されたのは、直径24cm程度の、ピンクのハートの形をしたデコレーションケーキ。会場からは「カワイイ!」「カワイイ!!」という感想が飛び交います。僕はそういうパーティに呼ばれることがあんまりないので想像で書いてます、僻みっぽい書き方なのは気のせいです。

カワイイ!には二種類ある

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さて、この「カワイイ!」という気持ち、一回立ち止まって考えてみましょう。ここの「カワイイ!」、果たして、私たちはいったいなぜそう思ったのか。私たちはなぜそれを「カワイイ!」と思うのか。

私は、カワイイ!と思う要素(あくまでお断りしておくと、特に「カワイイ!」に限定された話ではなく、私たちのなにか感想、思考、感情に一般的にあてはまるお話です。)には2種類の場合があると思っています。

ひとつは、「みんなが(もしくは、誰か尊敬する偉い人が)それをカワイイ!と言っているから」「世間一般にこれはカワイイ!ということになっているから」「ここではこれをカワイイ!と思っておいたほうが丸くおさまるから」「これをカワイイ!としておかないと村八分になるから」などの、

人間関係や社会性によって与えられた「これはカワイイ!」というタグに反応している

という場合。そしてもうひとつは、

魂の奥底が震える根源的なところからの原因不明に沸き起こる感情

…もう理屈とかそういう話じゃない、俺の魂が震えるのだ!という場合ですね。特に根拠も何もない個人的な印象ですが、ネガティブな要素、例えば恐怖とか驚きとか、そういう感情はこっちの要素が強い場合が多い気がしています。

一つにみえる感情も、分解していくと、この二つの要素があると考えられます。が、実際にはこれら二つの要素は、きっちりと分けられるというよりは、入り混じっていると考えるのが穏当でしょう。社会的なタグだけの感情ではあまりに味気ないですが、まったく社会と関係ない完全に外界から独立した感情というのも、おそらくはごく例外的なお話にあたると言って良いと思います。

感情の由来を意識する

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で、写真を撮る前にあなたが感じたこの「カワイイ!」は、いったいどちらから由来するものなのでしょうか、と言うのを考えてみたことがありますか、考えてみてはどうでしょうか、というのが今回のお話です。

自分が抱いた感情が、社会的なタグに反応したものなのか、それとも、魂の震えを俺は感じ取ったのだ、なのかについては、少なくとも写真によって表現を行うのであれば、よく自覚的であった方がよいのではないか、私はそう考えています。

どちらが良いという話ではないとは思います。そもそもがきっちりと分離できるお話ではないですし。ただ、例えば「こうすればカワイイ!ということになるから」という理由で、例えばピンクのハートマークをポンと置いてよしとする。
置かれた方は、ピンクのハートマークに対して付けられたタグ(記号性、という言葉を使っても良いかもしれません)、あるいは単に「そう言っておいた方が良いと思うから」「あの人が置いたから」などの人間関係に引きずられて「カワイイ!」「カワイイ!」と社会的に反応している。

これって、外から見るときちんと感動が示されて、それが伝わっているのだという関係が成立しています。少なくとも外からは成立しているように見えます。

とはいえ、タグに引きずられていることを知らないままに行っているのであれば、それは少し写真表現を小さく捉えられているようでなんだか少し寂しいな、と感じますし、知っていてやっているならば、それはちょっとばかし意地が悪い。純粋なる想いを、というのは実際問題としては難しくても、ある程度は自らの魂の鼓動を感じる要素を写真に入れ込めればいいのかな、と考えています。

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カワイイ!以外の例でも、ちょっと脱線気味かもですが、例えば、モデルさんの肌のレタッチとかも、似たような話になるかなと思います。わりとつるっつるにされてる時とかあるじゃないですか。人間の肌、そんななるはずないのにー!みたいな。

あれは「肌にシワやシミなど一つもないのが美しいのだ」みたいな社会性(みんながみんなそう思っているとは言いませんが)に引きずられている成分が、程度はわからないものの、結構あるような気がしていて、そこに引きずられて、「これでええのんかな」とモヤモヤしながら、必死でレタッチする場合とかもあるのではないでしょうか。

これも、自分は心の底から「コレが良いレタッチだ」と思ってやってるの?自分にとっての理想はそれなの?というところを、一回は考えてみても良いのではないか、そういう問いかけはできると思います。

ただこの話、ちょっと歯切れが悪いのは「当のモデルさんが完璧なレタッチを撮影の条件として求める」という場合があって、この場合、人間関係やら云々を含めて総合的に考えると、美肌レタッチの優先度を非常に高くするのが得てして正解になりがちですから、そこは程よい塩梅で決めてください(突然放り投げる)。

自分の感情の由来を探り把握しておく

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…で、話を本筋に戻すと、「あ、俺、社会的なタグに引きずられてるな」「あ、わたし、周囲の圧力に流されてそう思わされてるかもな」と思う瞬間や、そういう状況は少なからず誰にもある話だと思います。いわゆる世間一般の考え方が、自分の視点に対して影響を与えるのを排除することは実質不可能です。

しかし、こうした観点を持つこと、このあたりの認識について意識的であろうとすること、自らの感情の由来を探り把握しておくことは、写真を撮り、写真を人にみせることに関わる際に、自らの写真が示すものが何であるかを客観的に示すうえで非常に役に立つ、私はそう考えています。

ただし、この話はメタにメタに考えすぎると「斜に構えて裏読み出来る俺カッコイイ!」になってしまうので、それはそれでアレなお話になっちゃいますが…

表現に携わる者として、私個人は、写真にただ「〇〇ということになっている」以上ではないものを写してそれで良しとしたり、観る側としてはタグに反応して反射的な「〇〇!」を返してOKとしたり、そういったところでは終わらず、その先に進めるように頑張りたいです。

それでは。

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