写真と記録、あるいは記録化された記憶、もしくは記憶としての記録

写真と記録、あるいは記録化された記憶、もしくは記憶としての記録

クリストファー・ノーランといえば近年では「ダークナイト」や「インセプション」といった極めて重厚な映画を撮る監督として有名ですが、僕が一番好きなのはほとんどデビュー作に近い(実際は2作目)の「メメント」という映画なんです。
この映画を僕は何度見たかわからない。
一度全部見た後に、二回目を見た時に、細かく散りばめられていた悲劇の要素が全部収束していって、切ない気分に陥ったものです。

映画「メメント」とは

簡単に映画の紹介をしましょう。
映画の主人公レナードは、妻が殺されたときの頭部外傷が原因で、前向性健忘という記憶障害を患っています。
記憶障害といえば一番有名なのは過去の全て、あるいは一部を失う「記憶喪失」ですがそれとは違って、前向性健忘はあるポイント以降の現在と未来の記憶を全て保持できない状態になります。
仮に25歳の時にこの状態になってしまうと、50歳になっても、80歳になっても、自分が覚えている最後の自分の記憶は25歳のときのままです。

そのことを想像した時、僕は少しぞっとしました。なんて恐ろしく、そして悲劇的な状態なんだろうと。
というわけで、映画の主人公レナードは、妻が殺された日までの過去の記憶の全ては維持しているのですが、その日から彼は、5分程度しか記憶を維持できない体になっています。
つまり、いつも目覚めたときの「最新の記憶」は、妻が殺される瞬間。
朝起きて最初に思い出すのは、自分の愛した妻が殺されるシーンなんですね。悲惨な運命です。だから彼は犯人に復讐しようとします。
常に消えることのない、毎朝起きるたびに新たに湧き上がる激しい怒りと憎悪に突き動かされて、犯人を探し求めます。

でも記憶はまったく維持できない。
そこで彼が使う手段は、全てのことをメモして、そのメモを頼りに犯人を追い詰めるという手段なのですが、そこには色々と仕掛けがあって、まあとにかく見てくださいって、損はさせませんから。

そろそろ写真の話をしなくてはいけないのですが、この映画の最初のシーンにポラロイドカメラが印象的に使われています。
ポラロイドカメラといっても今の若い人にはわからないかもしれないので、今風に言うと、チェキですね。富士フィルムの。あれはいいですね、その場で撮って渡してあげられるなんて。僕が大学生なら、あれ絶対飲み会に持っていきます。バカウケ確実です。
そんなチェキみたいなイケてるナウなカメラがポラロイドです。
撮ったその場でプリントが出てくるカメラ。
映画はつまり、常に失われ続ける主人公の「記憶」を「記録」するメディアとして、写真を使っているのです。

「記憶は記録じゃない、思い込みだ」

レナードは劇中で何度もこうした自分の状態を色んな人に説明します。
自分は記憶が保てない体であり、だから全ての記録を取るのだと。

そしてある時こんなことを言います。
「記憶は記録じゃない、思い込みだ」
なんとも意味深で、突き刺さるセリフです。

レナードにとっての「記憶」は、もはや何よりも信頼の出来ない蜃気楼のようなもので、だからこそ、その反動のように「記録」の真実性と事実性を強く信頼するのです。
というよりも、人間である以上、何かを「正しい」と信じなくては、一歩も次には進めないものなんです。
誰しもが、それが本当に正しいかどうかは別にして、何かを、あるいは誰かを「正しい」と信じることによって、ある程度自我の正常性を維持しています。
全てを疑うことは人間には出来ません。
レナードは、写真や文字の持っている記録的な正確性を強く信じることで、かろうじて自我を保つわけです。

でもね、信じすぎているのですね。
信じすぎている。

僕の敬愛するバンドQueenは、かつてある曲の中でToo much love will kill youと歌いました。
あるいは昔の中国の偉い人は「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と金言を残してくれています。
何事も、過剰になるとその本質は歪みます。何かを信じすぎた時、人はそれを「狂信」と呼びます。
映画を見ている我々は、徐々に気づくのです。主人公レナードが信じているその強さは、もはやもう狂気の域に入っているんじゃないかと、そして疑問に思う。
なぜ、そんなにも信じなくてはいけないのか、と。

こうした過程で、レナードの残す写真も文字も、正しい記録ではないし、ある意味では「記憶」でさえなかったということが徐々に明らかになります。
監督のクリストファー・ノーランは、徐々に記憶も、そして記録さえも、全てが歪められたレナードの視線の中で、元々持っていた意味とは違うものとして変容していくさまを、恐ろしいくらい克明に描き出していきます。

記録的性質について

だから、レナードは酷い運命に最後に出会うことになる。
いや違います、レナードこそが、全てがわかった上で、何もかも利用していたというべきでしょう。
我々が都合よく自分の記憶を改ざんするのに似て(美しい記憶はより美しく、嫌な記憶は抑圧してなかったことにするものです)、記録もまた全然あてにならないということを、レナードは徹底的に利用します。
ある意味では、この映画は「写真」や「文字」といったものが持っていると一般的には信じられている「記録的性質」が、その盲信故に極めてもろく崩れやすいということを示唆しようとしている映画とさえ言えるのかもしれません。

写真と記録、あるいは記録化された記憶、もしくは記憶としての記録/次話へ続く

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