写真と文学 | 世界そのものの現像

前回の続き

写真と記録、あるいは記録化された記憶、もしくは記憶としての記録

世界そのものの現像

哲学書を読み耽る中二病の時代

誰にでも中二病の時代というのはあるものです。
僕はそれを人生で大体四回ほど罹患しております。

最初は小学生6年生の時(窓際で『指輪物語』を読むのがカッコイイと信じておりました。
時々窓から外を見て「モルドール・・・」と意味ありげにつぶやいてみたり、ああもう死んでしまいたい!!)。
そして最後のそれは多分高校3年生のときで、随分遅い中二病もあったもんですが、まあ仕方がないです。
哲学書を読むことが賢者への道と信じ込んで、プラトンからハイデガーまで、意味もわからず文字をとにかく目で追っては、「ルサンチマン・・・」とか「世界内存在・・・」とか、窓から外を見て、意味ありげにry

そして哲学科に入ってしまったのですね、大学で。
嗚呼、なんてことでしょう、人生の最大の失敗の一つです。
僕は元々宇宙物理学がやりたかったし、それが無理でもせめて何かもうちょっと壮大なことをやりたい系の人間だったはずなのに、よりによって哲学!我思う故に我あり、コギト・ エルゴ・スム、ツァラトゥストラはかく語りき!
いやほんと、中二病というのは恐ろしいものです。
ふわっとした適当な選択のせいで、大きく人生が狂ったことは間違いありません。
もしこれを若い人が読んでいたら、大学進学は真面目に考えてくださいね。

哲学科で大学教授が問うた事実の真実性について

ところで、大学に入って第一回目の授業のことを僕は未だに本当によく覚えております。
その校舎は古い建物で、一回目の授業はまだ眠気も覚めぬ一時間目で、窓から入ってくる心地よい春の太陽が部屋の中に意味ありげな印象的な陰影を作っていたことも、そして少しかび臭いにおいがしたことも、22年前のあの日のことを僕は未だにありありと思い出せます。
そして名簿を取ったあと、 教授が最初に我々に問うた問がこれでした。

「青空の青ってどんな色?」

こいつはアホだ、と思いました。だって今「青空」って言ったじゃん、言いましたよね?青じゃん、ブルーじゃん、Blueじゃん、なんならフランス語でもBleuですやん。
でもその次に来た質問で、僕の内側がざわつきました。

「今日、みなさんが帰るころは夕焼けになりますかね。夕焼けの色って、どんな色でしょう」

直感的に僕は、ここに入ったのは間違いではなかったかもしれないと感じました。その時教授が我々18歳19歳の若者を前にして問うたのは、事実の真実性を担保することの難しさについてです。

経験のverificationの問題

さて、ここで突然ですが、先日ヒーコでも記事になっていたファイルコピーについて少しお話をしたく思います。
写真家にとっては、Aという画像データが完全な形で、データ的に妙な欠損や変質なく、Aのままで別のドライブに移されるというのは、極めて大事なことです。
しかし意外とこのAがAであることを保証してコピーするというのは面倒なのですが、それをヒーコの記事内ですごく便利なやり方を紹介してくれています。
ファイルコピーはベリファイされなくてはいけません。
AがAであるという真実性と恒常性を保つということ、verification。
覚えておいてくださいね、試験に出ませんよ。

僕が見た「青」と、あなたが見た「青」

教授が我々に対して問うていたのは、僕が見た「青」と、あなたが見た「青」とは、同じ色なのかという問なのです。
世界を見たときの経験が同じなのかどうか、経験のverificationの問題です。
そして突き詰めてしまうと、その二つの「青」と呼ばれている色が同じであることをverifyする手段は、我々人間には存在しません。
だってそうですよね。私が見た青がどんな青なのか、言葉でどれだけ説明したところで、その青は感覚が受け取ったもので、記号化出来ないものだからです。
そして例えばそれをカメラで撮ったとして、それがどんなに私が見た「青」に近いものだとしても、真実完全に同じ「青」であることは原理的に不可能です。
カメラと脳が電子デバイスでつながる未来が来るまで、データの相互のverifyは不可能です。
さらに我々の記憶は1秒毎に自らの意志の影響を受けて刻一刻と変容していきます。
あらゆる過去は、いわばファイルコピーの途中で妙な失敗を常に蒙り続ける、信頼ならないデータの集積と言えます。
だから、あの日見た「青」や、あの子と一緒にみた「夕焼け」がどんな色だったのかは、常に自分の気持ち次第で変わっていくのです。

果てしない闇の向こう


つまり、記憶は勿論のこと、写真や本のような記録でさえも、実際には何一つ事実も真実も遺さないんです。
というのは、文字も写真も、それ自体は独立して正しい記録であるかもしれないのだけれど、問題は常にそれを見るのが、我々人間であるということなんです。
目の前にあるものを見るのは我々であって、記録を見るのも人間であって、それが常に我々の世界のボトルネックになっていきます。
果てしない闇の向こうには、絶対に手は届かないんです。
僕らの周りには美しい世界が広がっているのにも関わらず、そこにアクセス出来る手段は我々には実は一つもない。
いわば我々は、自分自身という密室に閉じ込められていて、そこから出ることは出来ない、心の囚人といえます。
そこに入ってくる僅かな光を見て、世界だ事実だ真実だと喜んでいる。
その姿はまるで、あの原初のカメラである「カメラ・オブスキュラ」から出てくる画を見ている古代人のようです。
自分の周りが全て闇であることに気づかず、逆さ世界を喜んで眺めている人々。
それが我々人間。
人間はいわば、その存在そのものがカメラであるのかもしれない、そんな風にさえ思います。

「見たい現実」を「証明」するために作り直す作業。

ところで、映画『メメント』のラストシーンなんですが、それは極めて酷いラストにも関わらず、レナードの顔を見てみるとなぜか妙にみなぎった顔をしています。
それはおそらく、彼の怒りと憎悪の対象が犯人なんていうチンケなものではないということについに彼が気づくからだと僕は思いました。
この世界そのものを相手取って、彼は不敵に笑うのです。
世界が彼から全ての記憶と記録を奪うのならば、彼は自らの意志でそれを作っていくことをその瞬間選びます。
撮り続ける写真は、常に彼自身の「見たい現実」を反映する歪んだ鏡として利用され、ウソにまみれた現実を「証明」するための「正しい記録」として利用されるのです。

まるでそれは、彼による世界そのものの「現像」のようです。
彼にとって不都合な真実をPhotoshopで書き直し、Lightroomで補正し、そしてあるべき物語、あるべき写真、あるべき「真実の像」として作り直す作業。
そう、我々が日々、この画面の前でやっていることです。

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