写真と文学 | 写真と北斗百裂拳、あるいはゼノンのパラドックス

写真と北斗百烈拳、あるいはゼノンのパラドックス

熱き死闘の記憶

「あたたたたたたたたたたたたたたたたた」

という文字列をもしあなたが瞬時に理解をしたとしたら、多分あなたの年齢は若くとも33歳程度。
勿論、どの世代にも温故知新の優秀な若者はいるものだから、10代でもこの文字列の意味するところを知っている人はいることだろう。
しかしこの文字列を、あの神谷明の甲高い声と、斜め上に繰り出される千手観音のような手のアニメーションとともに鮮烈に思い出すことが出来る世代は、おそらくは30代からのはずだ。
一番ど真ん中に来るのは、多分僕と同じ40代前後の人々だろう。
北斗の拳の主人公、ケンシロウの初期の必殺技「北斗百裂拳」の擬音を、我々の世代は「強敵(とも)」たちの熱き死闘の記憶とともに思い出す。

必殺技「北斗百裂拳」

6月のある夜、旧い友人と久しぶりに飲み明かした夜、自室に帰った瞬間、なぜか急にケンシロウと神谷明の演技に懐かしさを感じて、とるものもとりあえず人気動画サイトに直行し、北斗百裂拳の動画を何本か立て続けに見た。
それは私にとっては、ある種の自己救済の試みであったのかもしれない。
象は平原に還るほどではなかったにせよ(村上春樹『風の歌を聴け』参照のこと。あるいはデジタルカメラマガジン2017年7月号を参照のこと)、なにか胸のうちにストンと落ちるような気持ちよさを感じて、私はケンシロウの必殺技を何本も何本も真っ暗闇の中で繰り返し見ていたのだった。

危機感とその事実

爆裂する乱打、「オマエはもう死んでいる」のあの名台詞、そして一瞬の静寂を伴うディレイ、それから内部から激しく破裂する敵の身体。
見どころ満載のこの技はやはり素晴らしい。
しかし何十本か見たあと、私の中に得も言われぬ不安感のようなものがよぎった。
何か明確な問題意識が登ってきたわけではない。
だが、何十年も生きているうちに、この予感は放っておけないという強い危機感だけが私を突き動かす。
それからさらに何本かを見ているうちに私は「はっ!!!」と前身を雷に打たれたかのようにある事実に気がつく。
おかしいのだ、一子相伝の北斗神拳は一撃必殺、人体に708個ある経絡秘孔を一つでも適切に突けば、立ちどころに相手は死に至る。
そもそも暗殺拳なのだから、「あたたたたたた」とか百回も言っていれば、ガードマンとかに気づかれるはずで、この必殺技はケンシロウの代名詞でありながら、「一撃必殺の暗殺拳」という北斗神拳の本質を著しく逸脱している技なのだ。
なぜケンシロウは、百回も秘孔を突く必要があったのだろう、なぜなのか。
程なくiMacもスリープし、濃密な暗闇の満ちる午前1時の部屋の中、私は一人考えた。
何一つ答えが浮かんでこない。
疲れ切って部屋の電気を付けた時、私の目の前に置かれていた、ある物体に気がついた。デジタルカメラだ。

9の付くデジタルカメラ

私はその新しい、9の付くカメラを目にした時、全てを理解した。
それはまるで愛で空が落ちてきた時のような衝撃だったし、Youはshockと言われても仕方のないほどの衝撃的な理解だった。
ケンシロウがなぜ百個も秘孔を突く必要があったのか。
それはおそらく、古代ギリシャ以来人間が挑み続けてきた悲しい限界への挑戦であり、そして今我々フォトグラファーが挑み続けている永遠の戦いと同じ源を持つ、いわば瞬間への挑戦。

そのことをもう少し次回は突き詰めて考えてみようと思っている。多分。

写真と北斗百烈拳、あるいはゼノンのパラドックス/次話へ続く

続編はこちら

無限に分割される時間の中から「決定的瞬間」に手を伸ばす。

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