写真と機材、主題と手法。 写真と言語の密接な関係 -語られる写真 II

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こんにちは、タンノトール(@tang40)です。前回に引き続き、本稿では写真について書かれた文章、“語られる写真”のことをお話しいたします。

写真と機材、主題と手法。 写真と言語の密接な関係 -語られる写真 II

タデウシュ・カントルに捧ぐ

写真とは、何かが存在したことの表徴なのだ。とりわけその点において、写真はあらゆる芸術の中でも唯一のものである。すっかり色褪せた写真ですら、絶え間なく記憶に留めていることにほかならない。絶え間ない痕跡。写真という複製、かつて輝いていたその紙片は、はかなくもろいものであるにも拘らず、人間の肉体よりも永続性がある。

Strony o Tadeuszu Kantorze -Kadysz- -Jan Kott-
ータデウシュ・カントルに捧ぐー -ヤン・コット- 坂倉千鶴訳

注)タデウシュ・カントルはポーランド系ユダヤ人の演劇家であり、『死の演劇』という著作で、自身の演劇についての概念を解説しており、代表作の一つである「死の教室」はアンジェイ・ワイダによって映画化されている。1990年12月8日 クラクフに死す。「ータデウシュ・カントルに捧ぐー」はヤン・コット(ユダヤ系ポーランド人 演劇評論家/文学史家)によるカントルのエッセイ、劇評、追悼文などをまとめ加筆訂正を施し、再構成・編集した作品。

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「切り取る」という行為

写真を撮る行為について「切り取る」という記述は一般的といって良いほどに認知されていると思う。

だが、何を? 「一瞬を」「空間を」「感情を」「空気を」「本質を」… 「切り取る」という行為の対象はなんであろう。そして往々にして安易に、恰もそれが唯一の解釈であるかのように使われる、一瞬、空間、感情、空気、本質といった言葉の概念定義は? 理解やコミュニケーションといったものを優先するあまり、言語それ自体についてに言及することもなく、これらの言葉を使っていないだろうか。

「写真には何が写っているのか」、そして「それが何を意味するのか」について、冒頭に引いたヤン・コットの言説は多くの示唆を与えてくれる。

何かが存在し、それを撮る。それは「ある時間の複製」であり、同時に「痕跡をつくった」ことに他ならない。プリントに、データに、それが何処かに存在する、すなわち“絶え間なく記憶に留めている”。

行為(撮影)は二つの立場(撮影者/被写体-人に限らず-)に痕跡をつくるにとどまらない。読み解くまでもなく“痕跡”と述べられているように、そこを立ち去ったとしても「撮影されなかった世界」には戻れないのだ。

Adobe Photoshopなどに代表される様々なツールによって「写真」と同等の情報量を持つ画像(=カメラによって撮られたものと視覚上は見分けがつかない)を生成可能になった今日では、写真=現実という解釈はすでに成立しなくなって久しい。にもかかわらずこれらの言説が重要であり続けるのは、まさにこの“痕跡”故では無いだろうか。

露光時間が作品主題に及ぼす影響

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ロラン・バルトがその死後刊行された遺著『明るい部屋』の中で指摘しているように、写真というものは、死んだ時間であると同時に一時停止した時間でもあるのだ。それは死の表徴なのだが、特別な表徴である。つまり、類似のもの、死んだもの、かつて存在したものが停止状態に留められて、存在し、さらに存続し、細胞の繊維が解体するにまかせているのだ。カントルは、死者たちの写真が保有している脅威と演劇性とを、同時に見出したのだった。

(ータデウシュ・カントルに捧ぐー -ヤン・コット- 坂倉千鶴訳)

露光時間の選択

ここでも重要な指摘がなされている。「写真というものは、死んだ時間であると同時に一時停止した時間でもあるのだ。」という一節に注目して欲しい。写真を示す言葉(動画に比して)に「静止画」という言い方があるが、果たして写真とは静止画だろうか。動かない画という意味においてそれは正しいが、写真はけっして静止した時間を写しているわけではなく、観念としても実際の技術としても露光時間という「幅のある時間」を写していることは、とりわけ現代において(撮影機器の進化によって人間の感覚器官を超えた、数千分の一、あるいは数分、数十分といった時間を結像できるが故に)意識されるべきではないだろうかと思う。

※例えばCGでは観念としても実際の画としても「静止」、つまり現実にはありえない「時間の幅がゼロ」という静止画をつくることができる。CG(の静止画)と(カメラによって撮影された)写真を合成する場合に、写真の露光時間に合わせたモーションブラー(被写体ブレ)を加えて馴染ませる技法が使われるのは、知覚現実の経験の中に存在しない「完全に静止(観念上の時間:ゼロ)」した画に、違和感を覚えるからに他ならない。

撮影者の意図よりも、使用機材の制約によって露光時間が決定されていた時代に比べ、(現在でも妥協は強いられるにしても)露光時間の選択が撮影者に委ねられている今日の写真作品においては、露光時間が作品主題に及ぼす影響の大きさ、技法と主題の密接な関係について言及することは重要さを増す一方であろう。

(付記)APSフィルムによる写真(1999年撮影)

これらの写真はAPSフィルム使用のコンパクトカメラによって撮影している。セレクト、現像という後工程を除けば撮影者の意図は構図・タイミングにしか反映されていない。

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この当時、構図とタイミングだけで撮影を行うということに意味はなかった。他に選択肢がなかっただけのことだが、もし現在において構図・タイミングのみで作品を構成するのであれば、機材の選定も含めて何らかの選択(意図)の結果と解釈されてしまう。作者がそのことに留意しなかったとしても、今現在の写真を取り巻く状況が、鑑賞者の解釈にその選択肢を用意している。主題と手法は時代と無関係に批評されることはなく、作品の社会における評価(マーケットの評価という意味ではなく)もまた同様に変化していく。

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