写真と文学 | 写真と銃、あるいは「見えない自由」

写真と銃、あるいは「見えない自由」

「見えない自由」を手に入れるために、「見えない銃」を撃つ

かつてブルーハーツが小学生の私に素晴らしい歌詞を歌ってくれたことを、時々私は神様に感謝したくなります。
「栄光に向かって走る」と歌い出すその歌は基本的には負け犬の歌で、逆光を思わせる眩しい歌詞は、いわば血だらけの拳を隠すためのヴェールのように、全てを覆う優しい影のように機能します。
その中でこういう歌詞があります。

「見えない自由が欲しくて、見えない銃を撃ちまくる。本当の声を聞かせておくれよ」

心の琴線に触れる美しい詞です。
勿論ここは「自由」と「銃」が韻を踏んでいるのが歌詞的な工夫、写真で言うところの中心的な「構図」を作っているのですが、そうした技術的な卓越に加えて、このそれぞれの要素に「見えない」という形容詞がかかっていることに感動を覚えます。
「見えない自由」を手に入れるために、「見えない銃」を撃つという、パンク的なロマンチシズムにひどく打たれるのです。

ロックとかパンクは基本的には暴力的な衝動を内側に抱えて、それを音や歌詞として爆発させるジャンルなのですが、真島昌利の繊細な感性は、野放図な暴力衝動の解放を好みません。
誰も傷つけないがゆえに、負けることが最初から前提されている「見えない銃」を撃つことで、絶対に手に入らない「見えない自由」を目掛ける夢想を歌詞に託す。
なんて悲しく、美しいのでしょう。
勝てないまでも、せめて美しく負けることのロマンが、たった一行の歌詞に凝縮しています。
小学校の時にこの曲を初めて聞いた僕は、涙が止まりませんでした。たぶん。

「撃ち抜く」と「写真を撮る」

一体私が何を書いているのか、そろそろネタをばらしていかねばならないのですが、つまり「銃」なんですね。gun。
そう言えばロックミュージックの歴史には、gunを名前に持つ燦然と輝くロックバンドがいましたね。
常に破滅の予感が漂うあの美しいバンドが僕は大好きでした。

あ、また脱線し始めているので本線に戻らなくては行けません。
gunを撃つ時に必要なのはshootなわけです。
例えば英語で「二人の犯罪者が銃を撃ち合っていた」と言いたいなら、それは

Two criminals were shooting at each other

とでも書くことになります。
shootは明確に、相手をめがけ、「撃ち抜く」ための動詞なんです。
それが意外にも、「写真を撮る」という動詞として機能することは、皆さんもご存知かもしれません。
そして英語にはもう一つ写真を撮るときの主要な表現があって、それはtake picturesなわけです。
「写真を撮る」と日本語で言う時、おおよそ日本人は「撮る」という言葉以外を使わないと思うんですが、英語においてはtakeとshootという二つの主要な表現があって、そして面白いことにこの二つの表現は正反対の方向性を持つのです。

写真と銃、あるいは「見えない自由」/次話へ続く

続編はこちら

この広すぎる世界に写真家として対峙する。

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