XICOでのチュートリアルにはじまり、ホームページやYoutube
そしてセミナーでもレタッチについて説明したりする機会が多いのですが、いきなりそれら全てを無に還すようなタイトル、ゆるふわすぎて恐縮です。
ゆるふわ界のアラウンド棺桶、あきりん @crypingraphyです。
ごめん、5つじゃなくても良かった
「5つのこと」とか書くともてはやされるという記事を昔見た気がするので、それに習ってみました。
レタッチよりも大切なことがあるとか聞き飽きている。
「レタッチよりも大切なことがある」というのは、多方面で散々言われていることですよね。
自分もよく聞きますから。しかしレタッチでチュートリアルなんかを書いている自分が、あえて書いてみるのは一興。
ゆるふわの極意はレタッチに非ず。
Photoshopよりも大切な事が世の中にあるのか?
でもやっぱりわからないことは知りたいと思うのが人の性。
セミナーに来てくれる方や、自分のホームページやYoutubeなど、往々にしてレタッチについて聞かれる事が多いので
やはり気になるものなんだろうなと。まあそうですよね、自分も気になったりしますから。
しかし何で気になるんでしょうか?
撮れるようになりたい
それはおそらくそのような写真を「撮れるようになりたい」に尽きるのかと。
では「撮れるようになる」為に、レタッチの価値はどれくらいを占めるんでしょうか?
まず、そのためには「撮りたい」と思った写真において「レタッチ」がどれだけの割合を占めているか把握できていないといけないですね。
そもそもそのあたりを正確に把握できていますか?
ほんとうの意味で、一つの写真に於いてレタッチがどれだけを占めているか把握するのは非常に難しいです。
巧い写真であればあるほど、難しいのです。
「すごいレタッチだ」と思った写真が、実際のところ五分で終わっているか、三時間かかっているかはわからないです。
想像するしかない。その想像の精度をあげていくというのは一つの回答ですが、結局思うような写真に仕上げたいだけですよね?
そんな時の為のゆるふわなコツをご紹介します。
レタッチにおける5つのコツ
撮影時にレタッチを意識しよう

一つ目。
当たり前すぎて見逃しがちなのが、撮影時にできること。
例えばたくさんあります。
光の向き、色の乗り方、衣装、背景、絞り、場合によっては機材もそう。
これらが違えば、もはやいくらレタッチしたところでどうにもならない場合が大きいです。
ではレタッチを意識して撮影するとはどういうことなのか。
現像時で出来ることは現像時でも良い
意見の別れるところというのは承知の上で、現像時で出来ることは現像時にするのも一つのコツです。
例えば、ポートレートを撮影している場合、被写体にはモデルがいます。
生き物です。場合によってはヘアメイクやスタイリストなどチームがいます。
共同作業なんですよね、チームワークが必要。
みんなが楽しく一丸となって取り組まないといけない中で自分のセッティングに時間をとって
無駄に待たせる時間をモデルに与えるよりは、後回しにできることは後回しにしてその場の瞬間をたった一秒でも良い、大切にする。
・チームのメンバーにフィニッシュに近い状態でみせるという必要がある場合もあります。
・自分がヘアメイクを待っている時に最大限の準備をすることも大切。
あとでなおせる事は気にしない
例えばものすごく良い風が吹いていたとする。
これを写真にどうしてもいれこみたい、そんな時。
モデルの周りを、コバエほどの大きさとなったウサイン・ボルトが走り回っていたとします。
コバエほどの大きさであれば、例えそれがウサイン・ボルトだとしても後で消してしまえば良いのです。
それよりも、今この瞬間しかない風を大切にしましょう。
Photoshopは銀の弾丸ではない

二つ目。
銀の弾丸、というのは全ての問題に通用する万能な解決策などは存在しないという意味で使われていますが
Photoshopは、銀の弾丸ではないのです。
一つ目の項で、後回しにできることは後回しにと書きましたが、後回しにできないこともあります。
それについては細心の注意を払い、改善しながら時間を犠牲に払ってでも解決することが大切です。
例えば、「光」というのは写真を構成する大きな要素ですが、ライティングをしている際に理想の「光」でないのであれば
そのまま無駄に撮り続けたところでPhotoshopでそれを全て理想に近づけるというのは、無理とは言わないまでも無駄です。
撮影時でなければできないこともある。
「いつか撮れるようになりたい写真」をあなたは既に撮れるかもしれない。 でも書きましたが、やはり写真を撮るという時点が答えであったりするのです。
つまり、あらゆる可能性が写真には眠っていますが、撮った時点で殆どの可能性は確定します。
これが写真の良いところでもありつつ、絵的に理想を求めるフォトグラファーにとっては悩ましい所ですが、レタッチを考えているにしてもやはり、様々な条件が整わなければレタッチしたところでどうにもならないです。
何をどうするのか明確にする

何故、撮っているのかと言ったほうが良いかもしれません。
例えば、その写真が「作品」なのか「習作」なのか意識していますか?
自分はものすごーーーく、しています。
作品に必要なレタッチは明確
例えばそれが明確な作品である場合、レタッチというのは明確な場合がほとんどではないかと思うのです。
簡単に言うと、「気に入らない点をなおす」または「表現しようとしているモノにする」作業が殆ど。
どうするのが自分にとって良いか知っていて、できるできないはともかく、そこに近づける作業。
習作に必要なのは課題
それが習作の場合はどうか。
習作の場合は、課題があり、その課題を解決し、「いつか来る時」に向けて備える。
その具体的な課題への挑戦や、試運転として行う。
話の流れをおかしくするようですが、これもまた明確な「はず」なんです。
作品でも習作でもない写真
そう、これが厄介なんです。
悪いことじゃないんですよ、全然。
でもそういう写真にレタッチをする意味は、しっかりと考えたい。
「あの子と撮影したい」から撮っている。
「あそこで撮りたい」から撮っている。
「あの機材を使いたい」から撮っている。
こういう動機は純粋で、個人的にはより写真的だとも思うのですが、このような写真に対するレタッチというのが一番むずかしい。
何故なら、「何をどうしたいかがわからない」ので「なんとなくいじって良い感じになったら良い」と思っているから。
なので、こういう撮影をしてしまったときには、「作品」か「習作」のときと同様に、「何をどうするか明確にする」ことを意識してレタッチしてみることをおすすめします。
そうでなければ、無駄に「ああでもないこうでもない」と、時間を費やすことになるでしょう。
理想のために迷うのは良いことだと思いますが、ここ、出口ないですよ、振り返って全速力で入り口に走ってください。
実現する方法は無限

レタッチと一口に言っても、それが表現なのか修正なのかというのは大きな違いです。
表現か修正か
上の例で言うと、コバエを消すレタッチが修正だとしたら、雰囲気のためにコバエを足すのは表現です。
自分もそうなのですが、色調を変えたり多重露光のようにしたりというのは、表現なんですよね。
となると、何を広い意味で表現したいのかという事が大切だと思うんですよ。決してステートメントの事じゃないですよ。
言葉にできる必要はない。
例えば、自分は自分の表現が何なのか、言葉にしろと言われてもすることはできない場合が大半です。
自分が美しいと思うモノに、ただ向かっているだけですから。まあこれは自分の個人的事情なんですけど。
で、問題は、言葉にできなかったとしても、「どうしたい」かは知っているはずで、それは自分しか「知らない」んです。
手段は何でも良い
そして表現したいことがわかれば、手段は何でも良いんです。
Photoshopには、たくさんの機能がありますが、一つの絵的な結果を導き出すための手段は一つではありません、無数にあります。
5 + 5 も 10 ですが、 3 + 7 でも 10 なのです。
どういうことかというと現実の話で、ものすごくハイクオリティで今時の写真を世の中に出している人が
実は、Photoshop Element でもできるようなシンプルなツールで、ローテクな手法を用いているということが現実にたくさんあります。
最新の機能や技法にとらわれる必要なんてないんです。
何をどうするのか明確にするとした上で、実現する方法は無限を意識してみると、今あなたがやろうとしている事が本当に正解なのか?という疑問が浮かんできます。例えば、一つ一つの写真は違うのに、これがナウいからと手法にこだわってはいないか?という事です。
表現したいイメージがあるのであれば、きっとその手法の一つか二つは、あなたもきっと知っています。
「大好きなあの子」と電話するのに iPhone7 か黒電話かは関係ありません。とにかく電話しましょう。
観見二眼

観眼二眼というのは、最近スカイツリーの地下で復活したと巷で話題の
宮本武蔵が生前「五輪書」で伝えている心得の一つです。
元は兵法の話なのですが、孫氏の兵法書が様々な場面で応用されているように、このミステリアスな四文字熟語にも光るものがあります。
「みる」ということには、「観る」と「見る」の二種類があり、それぞれ「観の眼」と「見の眼」があると言っています。
仏教的に、心の目でみることと物理的に見るという訳され方をされている場合が多いようですが、見るというのは「よく見る」ということで、観るというのは「ぼんやり見る」というという解釈を昔読みました。ぼんやり見るというとあやふやですが、全体を俯瞰する眼だそうです。
これを広義に言うと、客観視ということになりますかね、しかし次元を一つあげて解釈すると大抵の物事に当てはまっていくのが世の常ですし
ここは一つ、もう少し狭めて自分なりの解釈を写真に当てはめてみたいと思います。
見の眼
「見の眼」というのは、まさに「よく見る」ということで、写真で言うともうくまなく見るということです。
無駄なコバエが飛んでいないか、拡大したら肌の上で七人の小人が宴会をひらいていやしないかということですね。
そして細々と、よーーーく見ながらそれをなおしていくのです。
こういう地道な作業が、例え640pxしか表現できないiPhoneのディスプレイでみたときであっても、「ものすごく丁寧」な匠の技を、理解していなくても感じるもんだと思うんですね。
観の眼
しかし後から見返した時に、何かとてつもない違和感を抱くときもあります。
そんな時には、一歩引いて「ぼんやりと眺めてみる」と見えてくるものがあったりする。
例えば、七人の小人が宴会をひらいていたから、デスノートに名前を書いてみたがぼんやり眺めてみたら、被写体が白雪姫だった。
みたいなケースですね。自分で書いていてよくわからないのでうまいこと言おうとせずに、簡単な一例で言うと
拡大してばかりではなく、縮小してみることも大切とかですね。
ただこれだけの話ではないですよ。
「ぼんやりと眺める」ことで、色調の微細な違和感や「やりすぎていた事」に気付いたりするのです。
よく「見て」いる時こそ、「観る」ことができなくなっていたりする。
レタッチしてみた写真を、時間をおいてみたら全然違ってみえるということがないですか?
遠き所を近く見、近き所を遠く見る
例えば自分の場合、「肌の気になるところをなおしていたら、全部なおしすぎて逆に違和感のある写真になってしまった。」とか「モデルだけを気にしていたら瞳にペスが写っていた」とか、失敗談は色々あります。
上の例は、あくまで一例ですが、いずれにしてもどちらか「観目」の片方があれば良いというわけではないんですね。
結局武蔵は正しかったということで、観見の両方の眼をうまく利用することが重要なんだと思います。
右目という左目を使うという意味じゃないですからね。
これも科学的に言ったら色々あるんでしょうけど、宮本武蔵に習ってみるのもありでしょう。
ちなみにカメラまで二刀流にする必要はないですからね。
レタッチをするにもコツがいる
以上、5つ自分が気にしている点をまとめてみました。
中々普段言葉にできないポイントが多かったので、難しかったです。
書いていて一つの問題にぶつかりました、5つじゃ足りない。
しかしこんなもんで勘弁してください。
また、実際にPhotoshop上でのコツなんかもまとめられることがありそうなのでまた気が向いたら書いてみます。
少しでも参考になったようであればXICOです。
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撮影と画像ソフトに対する考え方の基本が、乾いた砂に水が浸み込む様なとても解り易い表現と構成で書かれていました。
文章の中で、悪い例として引合いに出されている人って自分の事だなぁ、と思いましたし、写真の原点に戻る事の大切さも再認識しました。