写真コラム | 写真の見方、教えます!写真鑑賞のルールはたったひとつ、「作品に踏みとどまる」こと

写真鑑賞と囲碁観戦

いきなりですけど、私、囲碁のルールがまったく分からなくて、よく新聞とかに囲碁の棋譜が載っていても、何をどう見れば良いのか、手も足も出ません。どっちが強いかわかりません。棋譜の解説文を読んで「へえそうなんだ」しか言えないレベルです。
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囲碁・アメフト・写真

でも、囲碁を楽しく観戦できる人は、あの白黒のまだらから情報を読み取って「21手目が鮮やかだっ た」とか「あの隅の攻防に迷いが見える」とか評価が出来るわけです。中には「この手は悪手なのか」 「いや次の展開を考えるとここで生きてくるから今のうちにここに配置しておくと」みたいな論争が生まれることもありえたりしていて、囲碁がわからない私は、もはや口を開けてポカンとするしかありません。

他にも、ほら、パブみたいなところでビール飲んでたら、部屋の壁に吊るされたテレビからアメフトの中継やってたりすることとかあるじゃないですか。…無いかもしれませんが、まぁあると考えてください。テレビに映って実況と解説が白熱しながら試合が展開されるアメフトも、私は全くルールを知らないので、選手たちの身体能力が鬼のように高そうなのはなんとなく想像つきますが、実際のところゲームは何がどうなっているのか、どっちが勝っているのか、よく分かりません。

つまり、例えば、囲碁やアメフトを楽しく観戦することを考えた場合、囲碁のルール、アメフトのルールを(ある程度は)知っておいて、場面を見て、形勢判断やプレーの評価をしないといけません。そうでない楽しみ方もあるかもしれませんが、少なくとも観戦ルールを知っている者と知らない者の間にはそのゲームから得られる享楽には差があるのだ、ということは言えると思います。

…では、写真を鑑賞する場合は、どうなるのでしょうか?写真鑑賞にルールってあるんでしょうか?それが今回のお話の主旨です。

※実際の話としては、写真に限らず、写真を含んだすべての制作物で同様のお話が言える気がしますが、とりあえず写真と書いておきます、適宜「イラスト」「油絵」「小説」などに読み替えていただいて大丈夫、と思います。

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囲碁のルール、写真のルール

「囲碁と違って写真は自由だ!だからノールール!好き勝手にやるんだ!」

というのも一つの考えでしょう。基本はノールール、という話は、それはそれでありだと思います。

とはいえ、囲碁の盤面を見て「この白が蝶々の形をしていて可愛い」という感想は、やはり囲碁観戦のなかで妥当な見方から外れてしまっています。また、「なんとなく白が強そう」「たぶん黒有利っぽく見える」では、少々もったいない。囲碁とはこういうものであるよ、あたりの最低限の知識を持って、盤面を(詳細に)眺めることが出来る必要があるとは思います。

また、「名人が対戦しているから名人有利にちがいない」「若手同士の対戦だからパッとしない荒削りの対戦にちがいない」みたいな判断は、ともすると我々やってしまいがちですが、それはやはり盤面を見ていない空論であって、これもまた囲碁観戦のなかで妥当な見方から外れてしまうことになります。

きちんと展開される盤面そのものを見て、そこからの情報を基に判断をしないと、間違えた道に入ってしまい、間違えた結論を得てしまうわけです。

では、写真はどうか。私は割と同じ話かなと思っていて、個人的な写真鑑賞のルールとして

「パッと見の印象だけで判断するのを我慢する」
「写真そのもの、写真に何が写っているかをよく見る」

を決めています。
今回みなさんには、上の2項目を写真鑑賞のルールとして採用してみてはどうでしょうか、というお話をしてみたいです。
どういうことかを説明します。

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「写真そのものを見る」ということ

以下に面倒くさい問いかけを書きます:

「1:写真そのものをちゃんと見てますか?」
「2:作家の強さとか知名度で判断していませんか?」

どうでしょうか、しごく当たり前で、しかし面と向かっては聞かれたくない問いではないかと思うのです、いかがでしょうか。こんな問いは当たり前ではないか、そう思われる方が多ければこのお話は終わりです。ですが、少しどきっとした方もいるのではないでしょうか。

「ぱっと見の雰囲気でなんとなく好き、なんとなく嫌いを感じてそれを良しとしている」
「○○さんの写真はもう好き、ぜんぶ好き、この人の写真は全部もう完全だ!」

っていう判断を即決で下しちゃうパターンって、意外と多いんじゃないかと思っています。「思い込みに引きずられて、目の前に展開される写真そのものを実は見ていない」というパターンですね。以前に書いたハートの話にも少し似ているかもしれません。キツい書き方をすると思考停止とか、信者的感覚、と呼んでしまうこともできます。

恥を忍んで書くと、私は少なくとも、少しでも気を抜くと単に印象だけで写真を判断してしまいがちです。よくわからない分野、例えば美術館での絵画展示などではなおさらです。展示行って、結構混んでたりとかして、何十分も立ちっぱなしでぼうっとしてきたりすると、印象で判断、みたいなレベルですらなくなります。

絵画の前に立って、絵の横の作家名とタイトルをまず読んで、そうそう〇〇が描いたやつ!有名なやつだ、教科書で見たな、意外と小さいのね…!で、つぎにタイトルの下にある説明書きを読んで、へぇ、そうなのか、説明書きによると職を追われて困窮している時の暗い気持ちが出ているらしいよ、初期に書かれたあとにイタズラで汚されたのを3年かけて修復したらしいよ、すごいね、、、

…で、次の絵に向かってしまう、実際のところ目の前の絵そのものはあんまり見てないよねってことが、私は、正直に白状すると、たびたびあります。こう書いているとけっこう恥ずかしいです。

写真の前に踏みとどまるのだ

写真の場合はどうでしょう。

ただ写真をパッと見て、なんとなく全体の雰囲気や印象でこの写真はどうだああだと判断していたり、見た目の色彩、コントラストが与える印象だけで判断したりといったことが、あったりなかったりしないでしょうか。

もしくは、憧れの〇〇さんが撮影した写真だから!有名な作家さんが有名なモデルさんを撮影した写真だから!これはもう無条件で素晴らしいものだ!そういう判断をしていないでしょうか。

一枚の写真を前に、他の外部情報をいったんは遮断して「写真に何が写っているかを丹念に拾い上げて、拾い上げた写っているものを解釈する」という順を追ったプロセスを経ることは、想像以上に難しく、神経を使う作業です。

しかし、いったん惰性でぱっと見判断をしちゃおうとするのをぐっとこらえて、写真の前に踏みとどまり、何が写ってて、何が写っていないのか、写っているものが何で、自分が何に惹かれているのか(もしくは何を不満だったりイマイチだと思っているのか)を探ってみてはいかがでしょうか。

これまで見えていなかったもの、見落としていたもの、なんとなく感覚で判断していたものの正体が見えてくる体験が出来るのではないかと思います。きっとそれは撮る体験にも、写真を観る体験にもプラスになっていくと、私は考えています。

それでは。

注:本稿に関係する一連の論旨は、『小説のストラテジー』(佐藤亜紀・著、ちくま文庫)『小説の タクティクス』(佐藤亜紀・著、筑摩書房)、および京都造形芸術大学などで実施されているACOP(Art Communication Project)で得た知見を基に構成しています。必ずしも写真に関係しない話も多いですが、示唆的な話を多く含みますので、この辺の議論に興味ある方には強くお勧めします。なお、本コラムの責は前述の参考文献/プロジェクトではなく、すべてco1に負うものとします。

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