無限に分割される時間の中から「決定的瞬間」に手を伸ばす。

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前回の続き

写真と北斗百裂拳、あるいはゼノンのパラドックス

無限に分割される時間の中から「決定的瞬間」に手を伸ばす。

一瞬のディレイ

北斗百裂拳の後の「一瞬のディレイ」がヒントになったことを、まずは明確にしておこう。
このヒントが持つ意味を、私だけではなく、この文章を読んでいる多くの写真家のみなさんにも了解してもらえるはずだ。
それは、遅いSDカードを使った時の書き込みのディレイであり、そして爆裂する連写のバッファーが切れたときの、あのディレイ。

北斗百裂拳の一連の流れは、恐ろしいほど克明に、デジタルカメラの連写のシステムと似ているのだ。
それはいわば、「必殺の瞬間」あるいは「決定的瞬間」へと至る直前に、世界全体がその宿命を祝祭しているかのような意味ありげな文学的沈黙ではあるが、物理的にはそれは「遅延」以外の何物でもない。

人間の限界

残念ながら私の周りには北斗神拳の伝承者がいなかったために、そこまで深くその機微を知る機会がなかったので推測の域を出ないが、おそらくは致死の経絡破孔が適切に突かれた時、身体が内部から破壊するまでのロジックの間には、数秒間の身体のシステム的な「解釈」が必要になるのだろう。
それは人間という悲しい生き物の限界なのだ。

お酒を飲んですぐに酔う人もいれば、なかなか酔わない人もいるが、飲んで0.1秒で酔っ払う人は流石にあまりいないだろう。どんなに早くても数秒程度。
それは逆に言えば人間の身体の「冗長性」とも言える。

すぐに反応を返していては、色んなことがポイズンなこの世界においては、若干too muchなのだ。
多少の遅延を物理的に許す冗長性を備えた人間の身体、それこそが北斗神拳の効果が一瞬ディレイすることの意味なのだろう。
多分ここまで真剣に北斗百裂拳のあの一瞬の沈黙について考察した文章は、世界広しと言えども私が最初だと思う。

北斗百裂拳と遅延のロジック

一方、カメラの連写における遅延は、ボディ内のメモリとSDカードなどの記憶装置の間の記録速度の相違によって生まれるものだ。
それはおそらくは未来においてはいつか解決される問題だろう。

いつかカメラは、つまり、「遅延」という意味においては、北斗神拳を超え出るデバイスとしてこの世界を撃ち抜く「見えない銃」となるに違いない。

ただ、現在のところ、ケンシロウの打ち出す北斗百裂拳が現実に効果を持つまでの遅延のロジックは、まるでデジタルカメラがこの世界でシャッターを連写で切って映像がこの世界に出てくるまでの遅延のロジックと、まるで神によって運命づけられた相克の双子の様に、私には同じものに見えるのだ。

しかし、北斗百裂拳にせよ、デジタルカメラの連写にせよ、そもそもカメラにおける「連打」の意味合いはどこにあるのかそこが問題なのだ。そうだそれが問題なのだ、何が遅延だ、ここまで付き合わせてごめんなさい。
とにかく、「連写」の意味合いをデジタルカメラの側から考えてみたい。

連写をする時の理由

我々フォトグラファーが連写をする時の理由はなんだろう。
それは、一にも二にも、「決定的瞬間」を逃したくないというその思いから連写にするのだ。

特にスポーツにおけるアスリートの一瞬の動きや、電車・飛行機といった人間の認識能力の限界を超えた被写体を追う時、我々は「決定的瞬間」を一回で切り抜くことは至難の技なのだ。
だから12連写(N)や、14連写(C)、あるいは人類未踏のブラックアウトフリーのフルサイズ20連写(S)を使って、我々人間の限界を打ち破ろうとする。
それはある意味では悲しい試みだ。
カメラというデバイスに「運命の瞬間」を託すことと同じだからだ。
そしてそこまで考えた時、私はある事実に気がつく。

人間の悲しい限界、そしてそれを意識した時の不安と、一縷な希望へかける連写の試みは、ケンシロウも一緒だったんじゃないだろうか・・・と。

ケンシロウの不安

そう、北斗百裂拳は超初期の必殺技であり、ある程度物語が進んでいくと、あの派手な技は封印される。
物語の最後に至れば至るほど、ケンシロウの拳は研ぎ澄まされ、言葉は少なになり、「むう・・・」以外の言葉をあまり発さなくなっていく。
百烈拳はいわば、まだ若き伝承者だったケンシロウの不安なのだ。

708個(だっけ?)も秘孔はあるにせよ、もしかしたら、最初のうちは「ほんとに秘孔押せてるかな・・・」という不安と一緒に押していたのかもしれない。
一子相伝の北斗神拳を背負う伝承者である以上、失敗は許されない。
その不安と重責を「あたたたた」という暗殺拳なのに空気ぶち壊しの大声で気合とともに打ち払い、失敗の可能性を限りなくゼロへとするために、一つでも押せば確実に死に至らしめる北斗神拳なのに、100回も秘孔を押すという、いわばエネルギーの無駄遣いをしてしまうのではないだろうか。

そして多分それは、失敗ばかりの20代を過ごしてきた我々40代の人間には、実にしっくり来るのだ。
ユリアを奪われ、シンに北斗七星を胸に打ち込まれて、ボロボロになった後のケンシロウに、伝承者としての自信が若干欠けていたとしても、それを我々は責められるだろうか、いや責められない。

連続する時間のスペクトラム

こうやって我々は(ケンシロウも含めた我々人類は)、「決定的瞬間」を、いわば「連続する時間のスペクトラム」の中から、連写を(連打を)使うことでなんとか取り出そうと試みる。

それは言い方を変えるならば、「ゼノンのパラドックス」への絶望的な反逆であるといっても過言ではない。
ゼノンのパラドックスとは、「飛んでる矢は止まっている」とか「アキレスと亀」とかのあれだ。
俊足のアキレスは、前を走る鈍足の亀に永遠に追いつけないというパラドックス。
古代ギリシャのゼノンによるならば、アキレスが亀に追いつくためには、逃げている亀が「逃げ始めた地点」へ必ず到達しなければならない。

そして空間は無限に分割しうるのだから、アキレスは無限にその「逃げはじめた地点」を追い続けることになるから、アキレスは亀に絶対に追いつけないというものだ。
詭弁だ。追いつけるに決まってる。

でも、追いつけないのだ、だって時間は、確かに、無限に分割出来る。
僕らは、我々は、それを知っている。カメラを知っている人間は全員知っている。
瞬間は無限に分割出来ることを。
そして目の前を通り過ぎてゆく美しい瞬間を我々は呆然として取り逃していく。
その失われた瞬間には他のどの瞬間にも宿らない一瞬の輝きがあったことを、絶望的な気持ちで噛みしめる。
そしてその失われた輝かしい瞬間が、二度と、宇宙開闢から宇宙の終幕に至るまで二度と、文字通り再現され得ないということを。

世界の真実

あの女性の目に宿った一瞬の愁い、あの木の枝の世界の秘密を告げるような揺らぎ、あの雲間から漏れた神の啓示の如き一瞬の光芒。
それらは那由多恒河沙に分割された無限の瞬間の中から煌めく、世界の真実を告げる光だ。

僕らフォトグラファーは、それを常に、毎回毎回、永遠に逃し続ける。
逃し続けるからこそ、撮り続ける。
僕らはケンシロウの不安を抱えながら、ゼノンのパラドックスに常に挑み続けるアキレスなのだ。
無限に分割される時間の中から手を伸ばして、「愛で空が落ちてくる」ような「決定的瞬間」をモノにしようとする挑戦者たち。

それが我々写真家なのだ、youはshock